【第076話】自分の輪郭はどこにあるのか 

「鍋パーティー? いいよー」」

「昨日の鍋パーティーの話の続きね」

境界線はあいまいで
「自分」の実体は
どこにもなかった

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他者の箸を汚いと感じる感性。別にこれを否定はしません。けれど、もし自分以外の異物を排除するという感性が一般的になったら、マイノリティーや弱者は生きにくい社会になってしまいます。どうしても一緒に鍋をつつきたくないほど、生理的に嫌という人とは鍋をしなければいいのです。その場に行かなければいい。会社の忘年会で仕方なく、という場合もあるかもしれません。でも、鍋パーティーを何か理由をつけて欠席すればいいし、極端な話そんなに嫌な人がいる会社、ぼくなら辞めるかもしれません。我慢せず自分を大切にした方がいいです。

どこからが自分で、どこからが自分以外なのか。これは哲学的な問いですが、その境界がはっきりしないゾーンというのは、人間にとって気味が悪いものです。気味が悪いから、なるべく遠ざけようとしする。たとえば、体の中にある唾液は、「自分」か。「自分」かもしれない。少なくとも自分の体を形成する一部であることは確かです。では、唾液が垂れたらどうか。自分の口の外に出たヨダレは「自分」かと言ったら、うーんと考え込んでしまいますね。糸をひいてる状態だったらまだ自分とつながっているから、自分かもしれない、とか。いや、下に落ちてもまだ温かいうちは「自分」だ、とか。日焼けしてむけた皮は、自分か。切った爪は自分か。落ちた髪は自分か。汗は、排泄物は自分か。というように、「自分」とそれ以外を分ける輪郭は、実は非常にあいまいなのです。体から離れた時点で、「自分」ではないでしょう、という人が多いですが、本当でしょうか。

では、体のパーツを1つずつ分解してみましょう。足を一本、切り離す。たぶん、残りは「自分」でしょうね。じゃあ、もう一本の足と、手と、頭を切り離してみましょうか。すると、胴体が残ります。胴体は「自分」でしょうか。じゃあ、胴体から、腎臓を抜いてみましょう。次は肝臓を。というようにやってみたら、「自分」という実体はないのかもしれない、という不思議な気持ちになります。ただパーツが集まって機能している。そのなんとなくの全体を「自分」と呼んでるだけで、各パーツは「自分」ではないのです。分解したら、「自分」などという場所はどこにもなかったことがわかりました。

脳死の問題も、それでみんなが頭をひねっている。脳ミソが「自分」ってわけでもないよね。でも、脳ミソが機能しないと何もできないよね。それって「自分」って言えるのか、と。「自分」の本体はどこなんですかと。これはもう正解がない問いです。この類いの正解のない問いは人間を不安な気持ちにさせます。できるなら考えずに生きたい人が多いのではないでしょうか。まわりを不安にさせては迷惑だから、鼻をかんだり、爪を切ったり、皮をむいたり、髪が抜けたり、排泄したり、そういう行為は、人に隠れて処理するのがマナーになっていったのではないでしょうか。

(約1165字)

Photo: derpunk

 


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。