恥ずかしいのは
成長している証
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ピカソにこんなストイックなエピソードがあります。人気が出はじめて、ピカソの贋作が世に溢れ出したころ、ある画商が本物と偽物の違いがわからなくって、ピカソ自身に助けを求めました。膨大な作品をつくっているので、ピカソ自身も記憶にない作品があります。自分でもよくわからなくなっていて、贋作を次々に脇にどけていったのですが、本物までどけてしまった。画商は、「これは本物でしょう。あなたがつくっているところを私が実際に見てますから間違いないです」と言ったら、ピカソはこう返したと言います。「ピカソはだれよりもうまくピカソを真似ることができる」つまり、若きピカソが描いたのが事実だとしても、今の俺はこのセンスとクオリティーを認めない、ということを言ったのです。
なんで、こんな話をしたかというと、だれしも昔書いていたことが恥ずかしくなるってあるよねと思ったからです。みなさん、長年ブログやってたりして、ブログの引っ越しをするときに2つのスタンスがありますね。過去につくったものを、今の自分が認めないからといって、捨ててしまうスタンス。一方で、まあ恥ずかしいけど、これはこれでそのときの精一杯だったんだし、この感じも好きって言ってくれてる人もいるわけだし、公開し続けようというスタンスもある。
文庫本のあとがきでもよくありますね。売れた単行本が3年後くらいに文庫化するんですが、あとがきだけ書き足すんです。で、そこで書くのは「今読むとすごく恥ずかしく、始めから書き直そうと何度も思いましたが」という話しのくだりが多いんです。きりがないし、これはこれで良いと思うので、結局そのまま出しちゃいました、ということです。ほとんどの作家はこのパターンが多い。文庫化されるものは、売れた本ですので、気に入ってくれた読者もいるわけです。それならば、喜んでくれる人もいるのなら、これはこれでいいかとも思います。これがアーティストタイプの人だと、今の自分は納得いかないので、未熟な過去は消滅したいとなる。もちろん人それぞれなのですが、これはどっちがいいのでしょうね。最新バージョンだけ見せるのか。ヨチヨチ歩きからの進化の過程も見せるのか。単純に未熟というのはそんなに恥ずかしいとは思いません。でも、センスが変わったり、方向性が変わると恥ずかしいですね、ぼくの場合。だれしも中二病と呼ばれるような時期は通ると思うのですが、いつだって過去の自分は恥ずかしいものです。実はいま過去のブログを消すかどうするか迷ってまして、こんなことを書きました。
いまの若者は生まれた時からブログという文化があるから、中二の頃から続けている人は遡れば中二病が丸見えなわけですよね。小学生からブログつけはじめて思春期を通り大人になり、死ぬまで書き続ける人がこのままいくとたくさん溢れるので、そういう時代って文学史上なかったことで、どうなるのか楽しみ。生き方研究の資料になると思います。今までの伝記って、偉い有名人しか残ってないし、しかも伝記も後に思い出して書いてるから脚色とか記憶違いとかが多い。人間、過去の事実はわりと忘れないんだけど、そのときの感情ってすぐ忘れるんです。あんなに辛かったのに。お産で言ってる人もいますね。辛くてもう二度と産まないといいながら、また産んでしまったと。
ここまで書いてて思ったのですが、蓄積していくことでより自分が完成されていく気がしてきました。書いているみなさんは、ぜひ続けて、しかも過去のを消さないでほしいなと思います。ぼくは、興味がわいた人物がいると、どういう経緯で今の表現に至ったのかを知りたくなります。その経緯がわかると深みが増すし、より理解できるようになるんですね。一朝一夕にできたわけじゃないんだなぁと、時間の重みも含めて表現になるんです。それはなかなか他の人には真似できないし、他人と同じになることはありません。過去の自分が恥ずかしいと思えるのは、成長している証ということで、過去のブログも消さないでおこうという考えになってきました。とりあえず、いまのところは。ピカソと中二病を同列に語ってしまって、しかられるかな。
今日は雪がすごいですね。
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