同志よ、あれは言葉ではない
あれに触れるものは
大いなる存在に触れるからだ
文学は理解できなくてもいい。推敲もしていない文章とか詩とか、何を言ってるのかわからない言葉でも感じるものがある。言葉は意味が伝わらないと意味がないのだろうか。そうではない。書きたいことを書けばいい。人に見せようと思うと、わかるように書こうとか、カッコつけたりしてしまう。ただそのとき頭に浮かんだものを書き留めるようにしていくと、あるときフロー状態に入る。それをゾーンと呼ぶ人もいるし、ランナーズハイのような状態と説明する人もいるけど、いわゆる乗ってる状態だ。
呼吸は穏やかで、微笑みをたたえ仏のような顔になっている。キーボードを打つ手は何かの音楽を奏でているようにしか見えない。大いなる何かとつながっているのでしょうか。こういう自動筆記と呼ばれる現象を体験したことのある人は多い。ある程度文章を書いている人は、ときに手が勝手に動くという状態を経験する。自分で考えていることとは思えない。空気中に漂っている言葉をただつかまえているだけのときもあれば、だれかが頭の後ろで自分にささやいている言葉を夢中で書き留めているときもある。
あなたにもあるだろう。あとで書いた文章を読んでも、自分で書いた記憶がない。これは本当に自分が書いたのか。面白いことを書いている。自分で読んで、なるほどと感心している。こんなこと考えたこともなかったのに。
音楽家でメロディーが降りてくるとか、あるいはスポーツでも演技でも、絵画でもあるでしょう。自分でやった気がしない。あきらかに、なんらかの大いなる力が働いている。それを神と言うとオカルトとか言われるので言いませんが、現にだれもが経験している。冒頭に、言葉は理解できなくてもいいと言ったのはそういうことで、この自動筆記状態で書き留められた言葉というのは、インスピレーションを「観た」人に与えてくれる。いま言葉を「読む」ではなく、「観る」と言ったのは、その言葉の意味が読解できないこともあるからだ。
絵のような視覚芸術と音楽のような音響芸術と並んで、言語芸術がある。詩や小説や随筆(エッセイ)のことですが、読解できなくても心が揺れる作品がある。その偉大な詩を読んで、何が言いたいのと首をかしげている人は、感性ではなく論理の頭でまさに「読んで」しまっている。観ればいい。聴けばいい。何かを感じないか? 感じないとしたら、それでもいい。
言葉は視覚芸術でもあり、音響芸術でもあった。文字列は絵でもあり、言葉は音楽でもある。アートは作者がインスピレーションが湧いた瞬間の空気を閉じ込めて後世まで残してくれる。もういちど、詩を朗読してみて欲しい。もし、何かがこみ上げるなら、それは彼がその詩を書いた時のインスピレーションが伝わったからだ。偉大な詩人の、百年も前に彼の元に降りてきたインスピレーションを空気の缶詰にし、いま開封している。美術館でアートを観た後に、なぜか書きたくなる、つくりたくなるのはそのためだ。そのアートは、何が言いたいのかわからない。めちゃくちゃだ。しかし、感じるものがある。そのアートは空気缶なのである。
書き手たちよ。理解されるように書こうとする必要はない。このフロー状態に入ったら、成功だ。瞑想が気持ちいい、祈りが気持ちいいというのと同じだ。あなたは大いなるものと共にいる。その手を離してはいけない。一気に書き上げろ。一字一句聞き漏らさずに、書き留める。その状態が価値なのだ。その言葉を観た(読んだ)人は、インスピレーションを感じる。人々はそれを求めてアートを観るのだ。作品それ自体を観ているのではない。その奥の神を観ている。
なぜテレビで箱根駅伝をあんなにも多くの人が観ているのか。ただ黙々と走っているだけで退屈ではないか、という人もいる。ここにもアートがある。視聴者はアートを観ている。フロー状態に入ったランナーからインスピレーションを感じているのだ。
言葉は、人に理解されなければならないか。当然、それが連絡の手段としての言葉であればそうだ。だが、アートとしての言葉なら、書き手がフロー状態に入れた時点で成功だ。あなたも満足だし、観た人も何かを感じてくれる。
もちろん、あなたが書いても相手が気に入ってくれるかはわからない。いいと言ってくれる人もいれば、何も感じないという人もいるだろう。だが、アートは他人のご機嫌をとることではない。自分との闘いだ。大いなる存在と手をつなぐこと(フロー状態に入ること)を目標にやっていく。あとは自分の努力次第だ。
とはいっても、どうやってフロー状態に入るか。大いなるものとつながるか。その研究はこれからも続く。わかっていることは、とにかく書き続けなさいということだ。だからまた明日も書くね。
(約1973字)