【第255話】猫の足音を聞いたことがない / 深井次郎エッセイ


なぜ説教は伝わらないのか

 

書く表現といっても、いろいろありますね。ビジネス文書や研究論文から小説、詩などの文芸まで。それら書く表現の中でも、ぼくにとってはエッセイがやはり伝えやすいです。伝えたいメッセージがはっきりしてるタイプなので、それをできるだけわかりやすく、自分の頭にある絵と同じものを相手の頭に浮かべてほしい、という欲求が強いようです。テレパシーで直接、相手の頭に投影できたらそれがベストですが、いまのところ無理なので、それまではエッセイを書きつづけるのだろうなと思います。

エッセイというのは、書き手と読み手のズレが比較的少ない表現方法です。物語や詩となると、読み手にとってさまざまな捉え方ができるので、どう受けとるか読み手の感性に任せたいときは向いています。

たとえば、「健康のためには運動する習慣をつくりましょうね」とか、はっきりメッセージを言われると、ちょっと説教くさくなりがちなところですが、物語でなんとなく伝えられると読み手自身がハッと自分で気づきます。相手から説教されたことより、自分で気づいたことのほうが、影響力は強い。人が変わるのはそういう瞬間です。

「あ、説教が始まった」

そう感じられると、両耳がパタッと閉じる傾向がぼくもあります。昔からよく先生にしかられていた人は、この受け流し能力が発達しているのではないでしょうか。1時間くらい説教されていても、別のことを考えているので苦ではありません。そのうち説教しているほうが疲れてしまって、「よし、もういいだろう、帰れ」と解放してくれます。

「はい、すみませんでした、以後気をつけます!」

と反省している風を装っているだけで、その生徒は変わりません。だって、聞いてないで「早くバスケしたいなー」とか考えているのですから。

ことあるごとに説教されてきたので、説教がいかに人の中にしみ込んでいかないかが身にしみてわかりました。

逆に、そんな両耳を閉じる能力が発達した生徒の耳も開かせてしまう先生が、少ないながらもいます。説教にならないようにするには、どうしたらいいのか。説教の特徴は、上下関係があり、上から下への押しつけです。押しつけというのは、相手の話を聞かない、心をくまない、ということです。

その生徒がなぜ遅刻をしてしまったのかを聞く、ということです。だれにでも言いぶんはあります。いきなり問答無用で「遅刻はダメだ馬鹿、改善しなさい、だらしない奴め、けしからん!」では耳が閉じますね。そうではなくて、まず共感です。

「どうした、なにかあったのか? 体調悪いのか? 心配したぞ」

「ううん、ただ眠くて朝起きれなかっただけ」

「寝るのが遅いんだろう、なにかハマってるものでもあるのか」

と自分に興味を持ってもらえれば、実は夜にマンガ描いてて、それで寝るのが遅くなっちゃって、と生徒も話しだします。

「そうか、まあ、あるわな。実は先生もそういうことがあってね、わかるよ」

というところから入れば、生徒の耳は閉じません。信頼関係ができれば、生徒は話してくれるようになります。

「今日は何かあったのか? 言ってみな」

「猫の後をつけていて… 遅くなった」

「猫がどうかしたのか、気になる変な猫がいたのか?」

「うん、猫を見てたらね、そういえば、猫の足音を聞いたことがないと思って」

「へえ、猫の足音か。それで、どんな足音だった?」

「ずいぶん近くによったんだけど、聞こえなかった」

「ちゃんと耳をすまして聞いたか」

「マンガにはテクテクって効果音が入ってたけどあれは間違いだね。猫の足音はない。どんなに耳をすましても聞こえなかった」

「そうか、それはすごい発見だな。そういえば先生も猫の足音を聞いたことがないよ」

フラットであること、共感から入ること、がポイントです。そして自分が気に入らないから怒りたいのではなく、相手の人生を本当に考えているか、という態度は聞き手にはわかります。

もちろん次に、なぜ遅刻はしないほうがいいのか、それをロジカルに納得できるように伝える必要もあります。

集団行動だから、ひとりが遅刻することで、遠足のバスが出発できなかったらみんな困っちゃうだろう? お前が待たされる側の立場だったらどうだ、いやだろう?

社会に出ると厳しい人もいて、遅刻しただけで信用なくして出禁なんてこともある。それで大きなチャンス逃したらもったいないよな。お前は将来有望なんだから、そんなつまらないところでつまづいてほしくないんだよ。

正直な、先生も多少の遅刻なんてどうでもいいと思ってる。体調が悪いときもあるだろうし、気分が乗らないときもある。好きなことに集中してたら、時間なんて忘れることなんてしょっちゅうある。それはフロー状態といって、とても素晴らしいことだ。時間を忘れた経験のない人生なんて、むなしいものだ。だからいつも遅刻が悪い、とは言わない。自分がいなくてもだれも困らないと思ったら、自分の集中を優先してもいい。ただ、その読みを間違えるな。取り返しのつく失敗とつかない失敗の選球眼。勝負どきに遅刻したらアウトだからな。

実はな、先生も、昔よく失敗したよ。新婚旅行にいく飛行機に遅刻しちゃって間に合わなかったんだ。原因は寝坊なんだけどね。「遅刻するってことは、私のことを大切にしてない証拠よ、自分勝手な人」なんて激怒させちゃってね。別に大切にしてないわけじゃないよ。だれだって失敗はあるだろう? だけど、それが取り返しのつかない失敗だったんだ。成田離婚だよ、悲惨だろ。

人生には、適当でいいときと、絶対に外せない勝負どきがある。その決定機だけは確実に決めろ、ストライカーよ。おまえの好きなサッカーのメッシもそうだろう、まわりの選手よりも走ってない。ディフェンスにも戻らない。いつも歩いている。でも、ここぞというときは外さない。緩急だな。自分の仕事をわかってるんだ。

相手の気持ちをくむこと、そしてレトリック、エピソード、自分の失敗談からの教訓、彼にとっての憧れのヒーローもやっていること、そういうことを順番を考えて伝えます。

「いいか、お前には幸せになってほしいんだ。心からそう願ってる」

その心を持ちながら、伝えるということです。

「いいか、これはお前のために言ってるんだぞ」と怒ってる先生がよくいますが、生徒は、明らかに「ただのあんたのうさばらしだろ」とわかっています。そして先生はぼくのこと嫌いなんだな、とひねくれて閉じてしまいます。

相手の幸せを心の底から願ったなら、伝える言葉も変わってくる。これがメッセージの伝えかたです。

 

 

欠乏感から芸術は生まれない

 

今こうしてエッセイを書いているのはなぜか。過去の本もこの連載もまずぼく自身のために書いています。自分へのメモです。忘れたくない、大切にしておきたいことを書き記しておきます。それが前提にあって、でも自分だけじゃもったいないから、もし他に読みたい人がいたらどうぞ、というお裾分けのスタンスで公開しています。

だから読み手を釣ろう、注目を浴びよう、というあざとい工夫は必要ありません。もし伝わったらうれしい。だけど、最終的には伝わらなくてもいいや、というゆるさもあります。もともと自分のためですから。

これが読み手を変えてやろう、影響を与えてやろう、と意気込みすぎると、それが重くるしさ、押し付けがましさになってしまうことがあります。

もちろん、ぼくも読み手を意識した書き方はします。自分への備忘録だけだったら3行で終わるところを、他の人もわかりやすいように気を配って行間を埋めています。

説教に耳を貸す人がいないように、もうひとつ、自慢話も伝わらないものの代表格ですよね。なぜ書くのか。その動機が、自分のほうを見てよ、注目してくれよ、すごいねと賞賛してくれよ、という書き手は、つい自慢話に走ってしまいます。これも伝わります。痛いなと。

自慢話は相手の幸せを願っているのではなく、自分の欠乏感を埋めるためのものです。与えようではなく、奪おうというメンタリティーです。だから読み手も居心地の悪さを感じて離れてしまう。煽ったり、神経を逆なでして釣るあざとい言い回しも、自慢話も、欠乏感がそうさせています。

本を出版したいという人は多くいますが、中には「著者というステータスが欲しい。注目を集めたい」という動機の人もいます。これも欠乏感ですね。こういう方は、自慢話に走ってしまう傾向がある。知らず知らずに痛い人になってしまうので注意が必要です。

与えたい、というお裾分け精神が備わっていること。これがぼくが好きな書き手やアーティストの共通点です。相手の幸せを心から願うことができる人たちです。

もうひとり好きなタイプは、喜びの表現をする人。彼らは別に相手の幸せを願っているわけではありません。他人のことはあまり考えていない。でも彼らの生み出す作品、表現に触れると勇気がわいてきます。

「生きてるって素晴らしい」

「世界はこんなにくだらなくて、醜いところもある。それでも美しいところも、素晴らしいところもこんなにあるよ」

喜びが爆発している。生のエネルギーに触れると、心が振動します。触れて勇気がわいてくるものが芸術です。

小説と詩こそが芸術で、ビジネス書や研究書がそうではない、とは思いません。絵画と彫刻こそが芸術で、プログラミングやコールセンター業務がそうでないとは思いません。

お裾分け精神と喜びの爆発。このどちらのタイプだとしても、だれかを元気にすることができる人は、だれもがみんなアーティストなのです。

 

 

(3840字)
PHOTO: Krysthopher Woods


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。