【第250話】いつから人は先生になるのか / 深井次郎エッセイ

 

「わたしには先生なんて、とてもとても…」

それ教えてみたら? と提案すると、ほとんどの人がこんな反応をします。でも、 何か学んだことがあったら、自分なりに教え始めたほうがいいと思っています。後輩に教えることで、まずひとつはまわりの役に立つことができる。もし困っている人がいて、自分の知識や経験がその人の助けになるとしたら、それは立派な社会貢献です。

もちろん教えることは自分のためにもなります。わかりやすく伝えようと心をくだくことによって、自分の知識や経験が整理される。そして、まわりに与えることで、今度はよりたくさんの情報やサポートとなって返ってくるからです。あなたの成長が加速するのです。教えることで人は一番学ぶのではないか。この辺の話は前に話しました。

「なるほど、そのとおりだ。自分も教えはじめようと思います」

そう共感してくれる人は多くいます。けれど、今日のテーマはこの先。じゃあ、いつから教え始めるのかということです。教えはじめるには、いくつかハードルがあり、足踏みしてしまうようです。

「教えるには、もう少し上達してから… 」
「自分には、まだ早いのではないか… 」

業界を見渡してみれば、自分よりも優れた先輩方がいるのに、自分なんかが先生づらして出て行っていいのだろうか。まだまだできないことも多いし、こんな知識レベルで教えるのは謙虚さが足りないのではないか。調子にのってると思われるのではないか。教えてみたいけど、レべルがまだ足りないのではないか。

 

だれかひとりに聞かれたら、教え始めるシグナル

 

たとえば、家族のために毎日ご飯をつくるお母さんがいました。その健康的な節約レシピは家族からも好評だし、たまにfacebookなどSNSでご飯の写真を載せると、友だちから「おいしそう!」「食べてみたい!」「今度レシピ教えてー」などのコメントがつきます。

ご飯をつくるのが好きだから、料理研究家として料理の楽しさを多くの人と共有できたら。いつかそれが仕事になって、料理本を出したり、家で小さな料理教室などもできたらいいな。という憧れもこっそりあるのですが、「やはり自分にはまだレベルが足りないのではないか」と踏みとどまっています。

自分のことを料理研究家と名乗るのも、「自分なんかが」という気持ちがあり勇気が出ません。料理は好きだけど、学校などで特別な専門教育を受けたわけでもないし、師匠といえるのは自分の祖母から習ったくらい。

料理も懐石料理やフレンチなどの高級なものではなく、にんにくもやし炒めなど節約家庭料理だし、お洒落でもないオカンまるだしのレベルで、「料理の専門家でござい!」なんて名乗っていいのかしら。(不安だから資格などをとって、客観的に自分を測りたくなるのかな。なにかお墨付きが欲しかったり)

こういう葛藤は初期にだれもが経験します。先生、講師、専門家、トレーナーなどの言葉には重さがつきまといますよね。でも、ちょっと考えてみてください。教えるのって、完璧な人しかやっちゃいけないのでしょうか。業界ナンバーワンの金メダリストしか先生をやってはいけないのでしょうか。

先生というと重いですが、先輩くらいの感覚でいいのです。たとえば、小学2年生のような小さな子でも、ひとつ下の小学1年生に教えることはできますよね。小学校までの道順、教室での過ごし方、校庭での楽しみ方を弟に語ることはできます。それを「調子に乗ってる」ととる人はいるでしょうか。微笑ましい光景だと思います。立派なお兄さんお姉さんですよね。

そういう気軽な感覚で、初心者を卒業したあたりから、教え始めていいのです。毎日料理をつくっているお母さんだったら、初めて包丁にぎるレベルの初心者には教えられるはずです。

「一応、自分はこうやってうまくいってるよ」
「このコツを覚えるとだいぶはかどるよ」

ネットでもリアルでもいいです。だれか1人にでも「それどうやってるの?」と聞かれだしたら、教えてあげてください。それが先生になるシグナルです。

おせっかいだと思われたら、という心配もときどきあります。スポーツクラブでも、どの世界でも初心者にやたらと絡んでくるおせっかいな教え魔の常連さんがいます。ああなってもいけませんよね。大事なのは、あくまで「聞かれたから答える」というスタンスでしょうか。生徒の準備ができていないといくら親切心で教えても身になりません。求められたら答えるというスタンスがお互いにとっていいですね。

 

教えるのは、ただのコミュニケーション

 

たとえば、山登りでも、山頂から下っていくと、これから登ってくる人とすれ違います。

「こんにちは、山頂、もう少しですかね?」と聞かれたら

「はい、ここからだと20分くらいだと思います。上は風が強いし足元滑りますので、ちょっと大変でした」

なんて情報を交換しますよね。 この感覚でいいのです。「自分みたいな登山初心者が、教えてもいいのだろうか。低い山しか登ったことないのに」とは思わないですよね。この光景を見て、「先生づらして偉そうに」と思う人もいないでしょう。聞かれたので、知ってることをただ親切に教えただけです。 先生なんておおげさに考えず、ただのコミュニケーションですよね。

先ほどの料理好きなお母さんも、「レシピ教えて」と聞かれたのだから、それに答えればいいのです。「写真もきれい、おいしそうに撮れてる」と言われたら、どんなカメラ機材でどんな照明でどんな盛りつけで撮ってるかを答えればいいのです。ひとりに聞かれたということは、同じように思っている人がきっと世界には100人、1000人といるはずです。そうやって料理家の先生になっていくのです。簡単に早くできる健康的な家庭料理の専門家。べつに高級料理じゃなくても、教えてほしい人はたくさんいるはずです。

 

いつ初心者は終わるのか

 

とはいっても、さすがに自分が初心者のうちに教えるのは気が引ける、というのもわかります。では、初心者を卒業するのはいつなのでしょう。これはいろんな考え方があります。

たとえば、車の初心者マークをつける義務は1年間ですね。でも、本当は期間だけでは測れない。1年間毎日難しいコースを訓練した人と1回も乗らないペーパードライバーでは違いますから、期間は一応の目安でしかありません。才能があって飲み込みが早い人は、数時間やっただけで数年間やってる人よりうまくなったりします。 ぼくが考える上達レベルの段階はこんなイメージです。

 

初心者: 1から10まで先輩に依存する状態。何がわからないかもわからない。後輩になにかを教えはじめることができたら卒業。
初級者: 1人でも危険なくできる。回数をこなすごとにぐんぐん伸びる。
中級者: 伸びが鈍化。停滞と向き合い、トレーニングを勉強し直す。ある程度正確にこなせるが、失敗もたまにある。
上級者: 己を知り、勝ちパターン、マイペースをつかめた。狙い通りにコントロールできる。正確さを超えて、感動を与えられる。感情を込められる。
それ以上: 道の探求者。独自の流派、スタイルを築く。

 

初心者と初級者を分けて考えるとわかりやすいです。初心者は、右も左もわからない。よくいう、「何がわからないかもわからない」状態です。

初心者を卒業し、初級に上がるのはいつか。自分が何をしようとしているのかがわかり、とりあえず1人にしておいてもケガしない程度に状況がわかってきた感じです。

初心者は、子どもの成長でいうと、おむつの赤ちゃんです。出ちゃう、をコントロールできないのでおむつが必要です。いつ出ちゃうのかわからないし、気づいたら出ちゃってるし、どこにどう出せばいいのかわからない。自分ひとりではどうにもならない期間を経て、ようやくおむつがとれる。いつ出るのかの感覚がわかって、トイレで出すスキルも身につきました。

そうなったら、おむつの弟になにかしらを教えることができると思うのです。赤ちゃんの場合は言葉がわからないのであれですが、ここで出しちゃダメなんだよ、ということくらいはなんとなく伝えられます。後輩に教えられることが何かしらでもできたら、初心者卒業でしょう。そこからは初級者になります。 

初級者の特徴は、凄まじい伸びです。どのスポーツでも仕事でも最初の1,2 年がもっとも伸びます。「ビギナーのボーナス期間」とも呼ばれますが、思春期の身長のように急激に伸びます。このままのペースで伸びていったら、オリンピックも夢ではないかもしれない。 もしかしたら自分は天才かもしれない、という全能感があるのがこの時期ですが、伸びが鈍化して最初の壁にあたったあたりが初級と中級の境目です。

車の運転も初級者の若者ほど、自分は運転がうまいと勘違いしますよね。でも、世の中が見えてくればくるほど、自分の小ささが見えてきます。たいしたことない。いたって普通。上には上がいることが見えてくると、全能感にあふれていた自分が恥ずかしくなり、謙虚になります。

中級になると、謙虚になります。伸びも落ち着いてしまい、どうやら天才ではなかったこともわかります。全能感の反動で、なんて俺は無力なんだと落ち込みます。伸びも止まったし、壁に当たったし、この競技(仕事)もある程度わかったし、でつまらなくなって止める人も多いです。

本当にそれが自分にとって大切なものなのか、問われるのもこの時期です。よし、やろう、となったら、今までの練習の量質ともに見直して、停滞と向き合います。すると以前ほどの伸び率はないにしろ、やったぶんだけの伸びは感じられるようになります。成果を焦らず、長い目でみれるようになります。まだ遥か遠くに見える上級者たちの背中をみながら、己を知る作業をします。

自分の特性がわかって、正確に狙い通りコントロールできるようになったら上級です。正確に、だけでなく感動をも与えること。作業に感情をのせることができるのが上級者です。

 

いっしょに成長していく
同志のような先生が求められている

 

初級者は伸び盛りで全能感に溢れていますので、わりと積極的に先生になります。しかし、中級者は謙虚になっているので、「私なんかが…」ということが多いですね。上級者は、正確にできるので自信もあるので躊躇なく教える傾向があります。この辺は性格にもよりますが。

とくに謙虚な中級者の人に言いたいのは、「上級者にならないと教え始めてはいけない」という思い込みは捨てたほうがいいです。それでは、いつまでたっても教え始めることができません。上級者になれるのはいつになるでしょうか。年をとっておじいちゃんおばあちゃんになってからかもしれません。「今からでは早すぎる」と足踏みしてる人は、決まって10年後は「今からでは遅すぎる」と言います。

「もう少し修行してから… 」に終わりはありません。上には上がいるからです。教えながらでも、修行はすることはできます。

「自分はいちおう先生ですがまだまだ発展途上です。みなさんいっしょに成長していきましょう」

そんな気軽なスタンスでいい。学びの状況をつくれる人が先生です。先生が完璧である必要はない。(むしろ完璧な先生なんてどこにいる? )自分が手に負えないレベルの話になったら、もっと詳しい先輩をゲスト講師に呼んでいっしょに学べばいいのです。

プレイヤー兼先生、という生き方はいちばん面白いのではないかと思っていて、ぼく自身それをやっています。いつか上級者になっても学びは終わりません。プロ選手もさらなる高みを目指すためにパーソナルトレーナーを雇っています。トレーナーでなくても、必ず練習仲間がいます。1人では自分を客観的に見れないし、視点が固まるし、限界まで追い込むことができないからです。作家に編集者がいたほうがクオリティーが上がるのも、フィードバックがもらえるからです。

ギターでも英会話でもメイクでも文章術でも、自分で学んできたものは、まずは身近な知り合いからでも教えはじめてみてください。 柔道の帯の色のようにはっきりした線がどの分野にもあるわけではありませんが、エッセイだったら、自分のもやもやを言語化できたら初級者卒業です。中級者はよりわかりやすく、誤解なく、伝えられるように腕を磨く。余計なところを削れることができて編集者の目線で推敲ができる。上級者は、伝えるだけではなく、さらに感動を与えられます。上級者以上になると、内容やスキルというよりも、その人がただ存在しているだけでまわりにインスピレーションを与える。そんな境地があります。どの業界でもレジェンドがいますよね。

初級者以上ならだれでも何かの先生になれるのです。だから、もっと気軽に教えて教われて、という状況をもっと生み出したい。そうすれば困ってる人は減るし、文明も良きほうに発展し、全体が幸せになるのではと思うのです。好きで学んできたものが、少しでも後進の役に立つ。これは、自分のやってきたことの価値を再確認できて、自分をもっと好きになれるし、さらなる精進のモチベーションになります。また、自分も先輩たちから教えてもらった、その代々つむがれてきた糸を後進につなぐことができた。なにか大きな歴史のほんの一部にでもなれた喜びがあります。ちょっと大げさかもしれませんが、教えはじめることで、生きている意味を感じることができるのです。

 

(5301字)
PHOTO: Krysthopher Woods


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。