あなたの表現には水が染みますか
土とアスファルトでは、広さが違うように感じます。目の前に広場があって、そこがアスファルトの駐車場の場合、心なしか狭く感じることに気がつきました。同じ面積でも、広さの感覚は違います。広さというか、目の前の空間の大きさなのですが、駐車場よりも山の中にいるほうが、大きさを感じます。
土とアスファルトの違いは、水を通すかどうかです。アスファルトの道路を歩いているとき、その下の世界を想像することはありません。都会では、アスファルトの下に地下鉄や道路が隙間なく張り巡らされているのにも関わらず、地下に思いをはせることがありません。
土は水を通します。木に水をやると、すぐに土の下にしみこんでいきます。そのさまを見ていると、自然に地下の世界を想像します。どのくらい下までしみこんだかな。いま10センチくらいかな。この木はどんな根の形だろう。根は地上に出ている部分と同じだけの大きさがあると言われます。それを想像して、「このくらいなぁ」と思ったりする。
雑木林では、大きな木がたくさんあり、「この下には、大きな根が同じくらいあるのだなぁ」と思う。水平の広さだけでなく、垂直の高さ深さも感じるぶん、土の空間はアスファルトの空間よりも大きく感じるのではないでしょうか。この感覚は、もしかしたらぼくだけかもしれないけど、水を通すか通さないか、というのは大きな基準になっているように思う。
もしかすると「土の多い田舎で幼少期を過ごしたから」というのもあるのかもしれない。だとしたら、都心で育った子は、地下鉄や地下の首都高も感じているのだろうか。一度、聞いてみたい。
なにがセクシーかという話になると、男たちはとかく「網タイツだ! 」と主張するけど、それもわからなくはないです。水や空気を通すものは、その奥行きを想像させるから。奥行きがあるものは、その先を当然知りたくなる。半開きの扉は、開けたくなるでしょう。半開きと言えば、マリリン・モンローの唇。あれがきっぱり閉じていたら、水は入らない。
網タイツは、透けてるのがいい。でも、いくら肌が透けて見えても、ビニール素材ではセクシーではない。水をはじいてしまう素材、たとえば雨合羽はセクシーではありえない。あくまで、染み込む素材が雨に濡れたとき、その浸透具合いがセクシーに映るのだ。映画でも確認してほしい。雨のシーンで、あえて染み込む素材を着ているのは、そういうわけなのです。
表現も同じ。文章でも、正論ばかりで隙間のないものは、書き手の人間性まで興味が持たれないものです。隙間とは、ツッコミどころです。「なに言ってるんだ? 」「それ本当? 」というツッコミどころを残すことで、読者は自分で考えるために頭を使うし、その奥を想像するのです。
モノマネができる人は、まちがいなくセクシーです。「自分を握りしめすぎる人」はモノマネができません。「自分」と「そうでないもの」の境界をはっきり分けているので、自分じゃないものはやりません。演じることができないのです。
トークライブでも、盛り上がる人の話し方を観察してみるとわかります。「たとえばさ、ライオンがガーッてくるでしょ? 」と言ったときの「ガー」が出る人がセクシーです。話し手の顔と手がライオンのそれになっているのです。盛り上がらない話し手は、「ライオンが襲ってきたときにね」と話します。
落語は一人で何人もの役をやり、声色、表情を使い分けます。まるで、登場人物たちがそれぞれ乗り移ったようになります。自分なのかそうじゃない何者なのか。その人の体があいまいになったとき、それを見た人の心は確実に動きます。変顔ができる人は、まわりを明るくします。海で「バカヤロー!」が、山で「ヤッホー!」が叫べる人は、ワクワクします。
シャーマンやイタコの、何かが降りてきたときのふるまいは、こわいけどセクシーです。演劇やダンス、ミュージシャンも、自分以外の何かになっています。小説家もそう。普段、友人たちと話している感じとは、明らかに別人になります。自分以外になれる人に出会うと、その人のことをもっと知りたくなります。
大人になるに従って、「自分」が固まってくるし照れもある。「上司という立場もあるから馬鹿はできない」どんどん羽目を外せなくなります。水を通す穴のある人たちは、「自分の体は、自分だけのものではない」という意識がどこかであります。人としての大きさを感じさせるのは、自分をまわりに差し出せる人です。穴だらけの表現者は、まわりを明るくするし、世界につながっていくのです。
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PHOTO: DeMaGius