面白くないのは観るほうが貧しい。この精神だと、面白くない映画は存在しないこ
モトカワマリコの面倒な映画帖 第0話
新連載はじまりの挨拶
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自分を見失うほど映画が好き
一番古い記憶、小さな布団に腹ばいになって、雨戸の隙間から射す朝日を眺めていたこと。ホコリがキラキラ光ってすごくきれいだった。庭の水道の蛇口に光る水滴も好きだった。飴を包んだセロファンが大事な宝物だったし、従姉妹が作ってくれた紙箱の中に懐中電灯を入れて映す幻燈をみて、ドキドキした思い出もある。多分、そういう子どもは映画好きのDNAを持って生まれている。初体験は「星の王子様」で、今でもボブ・フォッシーのヘビがサハラで王子様と出会うシーンを夢に観る。小学生の時、木曜日の朝、友達に水曜ロードショーを観たかどうか見破られてしまうこともしばしば。ミュージカルの翌朝は踊りながら通学してしまうから。
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映画を観るというのは
ファインダーを覗く監督の目を覗き返すこと
物書きになってすぐ、映画の仕事に恵まれた。それまでの分と、仕事の分を合わせて観た映画は1万本くらいにはなるだろう。中には繰り返し観てしまう特別な作品がある。小劇場でひっそり公開された作品のこともあるし、大作のこともあるが、たいてい愉快な映画ではない。観ると混乱したり、葛藤したり、見終わって何日もモヤモヤしてしまったりする面倒な映画であることが多い。複雑でわかりにくい映像表現についてああでもないこうでもないと考えるのが好きなんだからしょうがない。暗がりに座って、ファインダーの向こうから覗いている監督と被写体を共有し、ここはどうしてこういう風に撮ったの?と妄想対話しながら観るのが楽しいのだ。
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面白くないのは観るほうが貧しい
そういう観方をするようになったのは、映画学校の先生の影響だった。先生は学生のどんなどん底の駄作にも見事な寸評を加える天才批評家で、作者も気づかない視点を映像から逆探知して指摘するそのスゴワザに舌を巻いた。この精神だと、面白くない映画は存在しないことになる。つまらないとしたら観る側が貧しいから。映画と能動的に向き合ってこその映画愛、鑑賞は作品との共同作業なのだ。面白いことやって♪ という受身では得るものは少ない。
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面倒な映画ほど、持っている
よくできた娯楽作品にも、作家性は出てしまうものだが、やはり後先考えず、映像作家が情熱のままに撮りたいものを力いっぱい撮ってしまった作品が魅力的に思える。そういういわゆるアート系映画はひとりよがりで傲慢なようだけれど、高飛車で攻撃的な人には何かあるように、異常に不器用か、事情があるのかもしれない。作家自身が、表現できないようなことをなんとか表現しようとしていたり、文字で説明できないようなことを伝えようとしていたりするのかもしれない。意味不明でも、抗えない魅力がある。今度は理解できるのではないかという期待で何度も観てしまう。「つまらん駄作だ。」誰が言っても「あんたにはわからんのだ」と認めたくない何か。わからなければ、わからないほど、奥底に何かあるんじゃないかと、思ってしまう。謎を解くカギはなんだろう?監督の母親か、聖書か、神話か、相対性理論か、フェルマーの最終定理か? わけわからんと感じる映画こそ、持っている映画だと思うのだ。そして監督の秘密を共有することができれば、その愛が誤解でも妄想でも、一生愛する価値がある。
というわけで映画コラムを始めます。