面倒な映画帖 01 「まわり道」 最後まで見るべき、死ぬほど退屈な映画

面倒な映画帖作家には不安と憂鬱が必要だ、生業がないことを非難されても怯むな

<連載>
モトカワマリコの面倒な映画帖 とは

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。SFXもスペクタクルもなし、魔法使いも宇宙人も海賊もなし。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

まわり道

監督 ヴィム・ヴェンダース 1975年

面倒な映画01
まわり道
最後まで見るべき、死ぬほど退屈な映画

 

 

大人になって改めて観たら
あれ? 面白いじゃん

大学の恩師平井先生はなんで「ヴェンダースはもうダメだ」なんて言ったんだろう。ヴィム・ヴェンダースはその年公開された「ベルリン天使の詩」で魂を売って、せっかくの力量をチャラい恋愛映画に費やした・・ドイツ映画の研究者でもある先生はお怒りだったみたいで。どうだめなのか、学部生だった私はシネ・シャンテに悪名高きその作品を観に行った。

はて、なにがそんなにダメ?  早速先生のところに戻って「面白かったけどな、面白いとダメなんでしょうか。天使とブランコ乗りの恋は大甘ですけど、むしろ主役はベルリンの街じゃないですか。」と感想を言うと、「君は彼の才能をよくわかっていないんだよ」とおっしゃる。そんならばと、先生イチオシの「まわり道」を観たわけだ。

元ネタはドイツの古典ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」で、その時は全然面白くなかった。スランプで書けない青年作家が、ドイツを旅する、孫娘(13歳のナスターシャ・キンスキーがヌードでデビューしたのも話題になった)を食い物にしている元ナチの老人とか、売れない女優とか、自称詩人と道連れになったり、陰気なユンカーの子孫のお城に泊めてもらったりする。劇的な展開もあることはあるけど、自殺のような事件の描写などそっけない。あれ、いつの間にあの人死んじゃったの? という調子。ひとつひとつのダイアローグは思索に富み、戦後ドイツの精神史を捉えた哲学的な作品として評価も高いはずだけど、二十歳そこそこの私はつまんないね~と思っただけ。

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最初の場面に出てくるヴィルヘルムの暗い部屋、窓を素手で叩き割り、血を流す。なんたるナルシスト、ヴェンダース初期作品のミューズ(男だけど)主演のリュティガー・フォグラーはドイツ的にハンサムで人当たりはいいけど、陰気で共感しにくいタイプ。当時の私は退屈で死にそうだった。ところが数十年たって観たらすごく面白かったのだ。ひとつひとつのエピソードに重い背景が感じられ、心が動く。2人の才能あるドイツのクリエイターたち、脚本を書いた作家のピーター・ハントケとヴェンダースの会話の輪に入ったようだった。

主役は主人公でもあるが、70年代のヨーロッパ、戦後ドイツの混沌でもある。ドラマは監督の傀儡なのだ。先生の指摘通り、この監督の作品性は映画という枠で囲んだ思索的な時間にあり、ストーリーではない。旅する、さまよう、まわり道、それこそドイツ映画なのかもしれない。ドイツ語には「ぶらつく」という意味の spazieren という動詞がわざわざあるくらいだから。己の過ぎてきた人生を思っても、無駄なまわり道ばかりだったかもしれない、いつのまにか自分が映り込む不思議さ・・・・年くってわかる作品もあるもんだ。

退屈が正しい

旅の終点は北の港町、映画の最後に主人公は、この旅はムダで、自分がしてきたことは何にもならなかったのだとつぶやく、書くべきことも見つからなかった、と。言ってることとは裏腹にふっきれたようなモノローグで、私はさらにはっ!とした。やっぱりこの映画が退屈なのは正しい、彼がなにもなしえず、ただ目の前のことに対処しているだけだったのは実に正しい。劇的な展開がないから結果「間違った行動」だったと思うのだろうが、何をやっても歯車が噛み合わない、ムダだったと思うような時間をすごすことが大事だった。それがありのままの世界だから。

彼が書けなかったのは、ありもしない桃源郷を探していたから。創作を阻んでいたのは、才能よりも、偉大になりたいとこだわる自意識だった。偉大じゃないかもしれない自分を許し、ゼロ地点に立つこと、己の目で世界を見る視点を得るには、コントロールをやめて自分を忘れ、どんどん流されてみるべきなのだ。殻をやぶってリアルな世界に生きなければ、リアルな人生を生きる人の心は動かせない。目を手に入れることが芸術家への第一歩なのだ。故郷のお母さんが「旅に出なさい、作家には不安と憂鬱が必要だ、生業がないことを非難されても怯むな」と息子の背中を押したのは、そういうことだった。才能だけじゃ、ただ一人の世界に生きているだけじゃ、作家ではない。電源が入っているだけで、周波数の合わないラジオは雑音しか聞こえないのだ。

芸術家は変態する

最初の宿で職業欄に「作家」と書くのをためらった彼も、ぐるぐるまわり道をしながら、なぜかエネルギーがたまり、創作の出発点に立てた。ヴェンダースが撮りたかったのは人間の変態、蛹(さなぎ)が孵(かえ)るように、一匹の醜悪な幼虫がもがきながら芸術家に変身するプロセスだったのかもしれない。蛹に囚われた時間なのだから、延々と続く寒々しい北ドイツの風景も、様々な話題に飛ぶエンドレスな議論も、淡々とした群像劇もそれでいい。新しい目で世界を見たければ、観客も主人公と一緒に、淡々としたセカイを旅しなくてはいけない。この試練を経てこそ、観客の心には、物語上でも、映像作家の仕事としても、二重に芸術家の孵化に立ち会ったという、ほの明るい感動が宿る稀有な作品である。

 

(次回もお楽しみに)


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。趣味は料理と映画と声楽。二児の母。