面倒な映画帖41話「雪国」旅の時間、日常の時間 / モトカワマリコ

面倒な映画帖そこに流れるのはどこにも到着しない駒子の時間だ。線路や旅館の廊下、往来のような、どこかからどこかへ向かう途中のような。毎日をしのぐだけの駒子は実際、何か目的を持ったことなどあるのだろうか。少女の頃、東京に売られ、雪国に流れ着いても、旦那に囲われて生きる生活は、永遠に続く過程のループで、どこへも到達しない。

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映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

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面倒な映画帖41「雪国」

旅の時間、日常の時間

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人はなぜ旅に出るのか。戦前の「作家先生」はしばしば生活臭漂う日常を離れるために。日常の呪縛は存外に強力で、逃れようと思っても、なかなか抜け出ることはできない。いつもの習慣、人間関係、経済の算段。そんなことに気を取られ、日常に埋もれてしまうと、視界がぼやけて肝心なものが見えなくなり、世界に問う新しい言葉を発することなどできない。フィクション作品でも、現実は考えの核であり、それあっての物語なのだが、まさに頭の中で構築しつつある新しい世界は脆く、現実の生々しさに、押し流されてしまうのだろう。

原作の小説は川端康成の戦前作、今は存在しない日本の風物が閉じ込められている。本を開くと湿った雪国の冷気をふうっと感じる気さえする。主演の岸恵子は美しすぎるほどだけれど、小説の中の駒子は彼女より破滅的な印象で、針が振り切っている。文芸映画の名匠豊田四郎が監督してみて、つくづく駒子は観念的すぎて肉体を持つのは無理だとわかる。私ごときがおこがましいが、酔い乱れる演技など、「女の酔っぱらい演技の定型」がすぎて女優が気の毒だ。前髪ハラリの元祖・池部良が「超絶けだるげ」に演じる主人公の作家・島村は、本では影法師のような男だが、池部良の体を得て、映画のほうがキャラが濃くなった。男が描く男は、肉体を持ってしまうと実体感が増してしまうのだろうか。イメージとしての女は、そっくり実体化するのは難しいのか。まあ、映画は映画、小説は小説だけれども。

妻子持ちでパトロンに旅費をもらう物書きだ。家庭からさえ逃げてきた男に、新しい親密な関係を作るエネルギーがあるわけがない。いくら注いでも甲斐がないのに、芸者の駒子はひたむきで透明な愛情を注ぐ。注いでも底が抜けているから、愛はどこかに消えてなくなる。あるいはこの男は、女が何かと言っては自惚れてのぞく鏡のようなもの。男の目に映るのは泣いたり、恨んだりする自分の顔ばかり。それを知ってか知らずか、何もしてやれないのに、男は女の情を当てにして何日も温泉町に滞在し、女のそばをうろうろする。

そんな旅の宿にも、舞台裏では日常が存在する。そこに流れるのはどこにも到着しない駒子の時間だ。線路や旅館の廊下、往来のような、どこかからどこかへ向かう途中のような。毎日をしのぐだけの駒子は実際、何か目的を持ったことなどあるのだろうか。少女の頃、東京に売られ、雪国に流れ着いて、島村を待つ日々。男を待つことが生き甲斐にさえなりかねない、永遠に続く待機のループ。三味線を弾き、客の相手をして、ひん死の許嫁の薬代を稼いでいるのだといいながら、許嫁を愛しているわけでもない。駒子が愛さない許嫁は別の女、島村が往路の汽車で見かけた儚い美少女・葉子がひたむきに世話をしている。温泉宿を囲い込む芸者の日常に閉じ込められた、冷たい炎のような女の情念は行く当てもない、結論の出ない不毛なエネルギーとして雪深い温泉地をぐるぐる回る。

 

「ジャンケンポーン!」

ぐるぐる回るのは温泉地の専売特許なんだろうか。それは旅の初日、午前1時半、突然始まった。「ジャンケンポーン!」耳元にいるようなくっきりした声がした。部屋のすぐ外の廊下をぐるぐると走り回る「ドタドタドタ」という騒音、「ギャハハハ」「ソオレッ!」「ヒヒヒヒヒ」3人ぐらいの男性が叫ぶ声。誰が騒いでいるんだろうか。一回り走り回るとまた「ジャンケンポーン!」と巻き戻したように何度も繰り返す。寝入ってしばらくのことだ「なんだ?」と思いながらも、半分夢かと思っていた。ただ、あまりにも騒ぎが続いて、だんだん眠りづらくなってきたので、思い切って廊下に出てみた。シーンとしている。ありふれた旅館だ。非常灯しかついていない青暗い光に、古ぼけた昭和初期の調度がぼんやり浮き上がっている。近くの階段も調べたが、まったく人気がない。廊下はむしろ静寂につつまれていて、ブーンという自販機の音が遠くから空気を伝わってくるだけ。「そんな・・・」やはり夢を見ていたのだろうと、また部屋に戻り、布団に潜り込んだ。数秒で「ジャンケンポーン!」また始まった。自分が夢を見ているのか、起きているのか、確認する方法はない。私の意識はその時頭の中の悪夢に閉じ込められていたのかもしれない。部屋の中ではクリアな騒音が聞こえ、騒音元のはずの廊下には誰もいない。誰もいないが、音だけが存在する。そのうち朝になった。朝食の支度にやってきた宿の主人に聞いてみようか迷ったが、何も聞かなかった。お行儀の悪い泊り客が騒いでいたという事実を知るより、ジャンケン妖怪が歓迎してくれたと思ったほうが、幾分愉快だからだ。

だいぶ前にドキュメンタリー番組で見たことがあった。洗濯機がすぐ温泉塩で錆びるとか、庭先に蒸気がシュウシュウ噴き出していて料理を地熱で賄う生活が紹介されていた。

鉄輪温泉の[地獄」、地熱を利用した調理台など、蒸気の吹き出し口を地獄というそうだ。

鉄輪温泉の[地獄」、地熱を利用した調理台など、蒸気の吹き出し口を地獄というそうだ。

鉄輪温泉に行ってみたいと、ずっと前から思っていた。思ったら行けばいい、でもやたらに腰が重いのだ。滅多に自分の陣地から出ずに目の前のタスクをこなすのが私だ。日常という結界は私をとらえて離さない。しかし飛行機に乗ってトウキョウから逃れれば、旅の時間の中に入ることができる。場を変えれば、呪縛を逃れて、新しい目で世界を見ることができるかもしれない。シュウシュウと目の前に吹き上がる蒸気を飽きず眺めていれば、完璧に生活の外に出て、自分自身を生きている、と感じることができる気がする。

土地の妖怪の洗礼も受けて、息が詰まるほどの蒸し風呂で8分も蒸され、頭の中は少しリセットされただろうか。 源泉が100度近いという熱い温泉の入り方が板についたあたりで、国境を飛び越えて戻ってきたトウキョウは、意外にも雪国だった。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。