面倒な映画帖32「マーラー」名札のような墓のぼやき/モトカワマリコ

面倒な映画帖人は生き延びるために生きる、世の中と共存しながら、できる限り幸せな一生を送ることが一番の目的だ。それができない人種は苦しみながら「自分の人生」というライブ活動以外の形でエネルギーの痕跡を残そうとするんじゃないのか。

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モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

 面倒な映画帖32「マーラー」

名札のような墓のぼやき

市電の38番に乗ったら、an den langen lussenで降りて、左に行くと「自動ドア注意」と書かれた鉄の門がある。墓地は広いが案内が丁寧で、故人はグループ6の7の1に眠っていると表示があるので、探すのに苦労はしない。そこには四角い石がぬっと立っていて、上のほうにただ「グスタフ・マーラー」と書いてある。大作曲家は装飾もエピタフさえもないただの石柱の下にむすっとして眠っているのだろう。なにせ近くには才気あふれる愛妻の墓がマーラーに背を向けて立っているのだ。夫の没後、さらなる浮名を流した彼女の苗字はもちろんマーラーではない。生きた姿が見たければ、バーゼルの美術館に行けばいい、オスカー・ココシュカの代表作はアルマがモデルだから。(この作品は門外不出なのだそうだ、ココシュカが絵を上塗りしすぎて、動かすと絵具が壊れる危険がある・・・この件については、あまりにも異様なエピソードなので、いずれまた別の機会に)本作の監督ケン・ラッセルもここに立って足の下の人物の気持ちを考えたことがあるかもしれない。

数年前にドイツの監督がマーラーで新しい映画も作っている。パーシー・アドロンは「バグダット・カフェ」でヒットを飛ばした人で、喜怒哀楽が映像ににじみ出る情緒あふれる作風、これも激しい夫婦関係を描いている内幕ものだが、マーラーがあまりに痛々しい。監督がフェミニストで女性を応援する派だから、アルマのような音楽史に埋もれる女性作曲家の再評価が進むなかでは、ドイツらしい切り口なのだろう。だが個人的には日本では80年代に公開されたケン・ラッセルの「マーラー」に一票を投じたい。

ラッセルは英国のデモーニッシュな映像作家。70年代初めのロンドンは当時、モンティパイソンのテリー・ギリアムなども登場して、映像アートの宝庫でもあった。ラッセルはBBCで伝記映画などを作っていたのだが、その後独立し、21世紀的感性から見ると、むやみに破廉恥で残虐な作品が続く。当時はMVの先駆者、ダークフィルム専門のアート系として映画好きにしか知られていなかった。観客が狭いからこそ、わざわざ敢えてやりすぎていたラッセルだが、「マーラー」でもやりすぎ感は否めない。当時の最新流行も取り入れ、意味不明な部分もあるはある。

作品と人生で±ゼロ

マーラーというのは、たぶん監督の中で、音楽と人間両方のことなのだろう。しょぼくて被害妄想で性格の弱い彼のやられっぱなしの人生の断片に、絶妙な具合でマーラーの天駆けるような自在感あるシンフォニーが鳴り響く。それだけに余計、闇は深く、絶望のズンドコなのである。そしてこの相反が大きいほど、作品には価値がある。意地悪ケンちゃんの面目躍如といえよう。この映画を一言でいうなら、病んでいる、それに尽きる。なんの救いもない、蓮の花が泥沼からすいっと出てくるようにドロドロした人生から、あんなに前向きで、力強い音楽が生まれたのか。マーラーが持っていた明るいエネルギーはすべて曲に注がれ、実人生には一滴も残っていなかったかのようだ。才媛の愛妻には裏切られ、子どもは死んでしまうし、仕事は思うようにならない。なんなんだ!俺の人生はいったい!と思うところとは別次元で、20世紀の萌芽を音に変えていったかのような、変化にとんだ、大胆で予想外の音楽を紡ぎだしていく。映画は終始フラストレーションに覆われている。すっきりしない結末に消化不良をおこしたならマーラーのCDを再生することだ。シンフォニックな音に浴していると、さんざんな人生と引き換えに生まれたマーラーの大仕事を感じることができる。それとセットなら、ハッピーエンドと言えなくもないだろう。

よき人生からは何も生まれない

人は生き延びるために生きる、世の中と共存しながら、できる限り幸せな一生を送ることが一番の目的だ。それができない人種は苦しみながら「自分の人生」というライブ活動以外の形でエネルギーの痕跡を残そうとするんじゃないのか。幸福の代わりに差し出したもの、悪魔に魂を売った男の遺産だから、芸術は残る。ラッセルはそう言いたいのか。

マーラーはしかし、再発見されたマイスターだ。実際、一部の音楽愛好家の間では、評価されていたのだろうが、一般に聞かれるようになったのはNYフィルを率いる指揮者のレナード・バーンスタインがレバートリーに加えた60年代から。映画が製作されたのは70年代なのでラッセルはかなり前からこの大家に目を付けていたと思われる。その目敏さも、外側から見ると超人的だが、案外そうでもないのかもしれないという気もする。

60年代、70年代のロンドンにいた破天荒なインテリグループ、芸術家、アートディレクターの集団はコミュニティとして膨大なインプットとアウトプットを重ねていたのだと思う。そういう場に所属していることが、個人の能力を超えたビジョンを与える。一人ひとりが天才ではなくても、集団感染のように、知らず知らずに、知見が身についていく。プライドを捨てて、心を開き自分のスタンスを自覚すること、先を行く人をマークすること、なるべく近くで直接波動を受けていると、偶発的にエネルギーの移動が起こり、ある日なかったところにドアが出現する的なことがおこる。今東京にはそんなフィールドがあるだろうか。ただちに探し出して、潜り込まないと!運よくそういう磁場にたどり着いても、どこにもリーチしない可能性もある、それでも外側をぐるぐると回りつづけることで、自分の愚鈍な運命を変えることができるかもしれないと、はかない望みをつなぎ、アンテナを張る。

マーラーは死ぬ前に「この墓に来る人は私のことを知っているはずだから墓石に銘はいらない」名前だけしか書かせなかったそうだ。四角い石の柱が立っているだけの墓。「ほっといてくれよ」仕事のスケールに反比例するように弱気な彼が土の中でぼやく。墓の前にいると、曇り空から一瞬墓石に光が差す、できすぎじゃない?苦笑しながらマイスターに花を手向けた。マーラーにしたら作品だけが認めうる彼であり、石の下にいる作曲家は残骸みたいなものなのだ。それでもいいのだと思う。かつてマーラーだったものは滅びても、彼の音楽は永遠に再生され続け、音波になって宇宙の果てまで広がっていくのだろうから。

私の好きなのはバーンスタインが振った交響曲7番


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。