後ろを気にするたびにぐらつく私に気づいて師匠が言う。「僕のことは忘れろ、前に進むことだけを考えろ!自分を信じて、前に向かって走るんだぞ!」ゴーゴーゴーと掛け声をかけられ、ひたすら漕ぐ。
< 連載 > 映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。 |
面倒な映画 19
「E.T.」
ゴーゴーゴー!自転車の師匠の話
嘘と秘密は違うよ
8歳の春、知り合いにホームステイしていた外国人のお兄ちゃんと公園で遊ぶことになった。アメリカの少年は10歳、チリチリ頭に眼鏡、カッコいいとは言えない。「あなたどこの人?」「ボストン」から来たという意味だろう。彼はボストン、本当の名前はわからない。初めて知り合ったアメリカ人で、自転車の師匠だ。
ボストンは青いピカピカの自転車に乗ってやってきた。
「いいなあ、自転車。私は持っていないの。だから8歳なのにまだ乗れないんだ。」「自転車がないと、遠くにいけないね」「ケガをするから乗っちゃだめなの、人の自転車も借りちゃいけないってお母さんに言われているの。」「乗りたいの?」「でもだめなんだ。」「でも乗りたいんでしょう?練習していいよ、貸してあげるよ。」
自転車を持っていないのはとても恥ずかしいことだとわかっていた。でも親は絶対に買ってくれないし、人の物を借りて事故を起こしたら面倒だから、借りてもいけないという。もしも自転車があれば、すごく遠くに行けるし、友達と遊ぶとき一人だけ飛脚のように走らなくてもすむ。叶わぬ夢だった。想像上の私は新しいピカピカの自転車を持っていて、どこまでも走る、スピードに乗って、飛ぶように。顔に当たる風を想い心が躍る。
「自転車なんて乗ったら怒られる」「じゃあ、秘密にして練習すればいい」「だめだよ、嘘つきになっちゃうよ。」「秘密と嘘は違う。君はなんですぐ欲しいものをあきらめるの?親がどう考えようと、君が乗りたいなら、乗るべきだ。一生自転車に乗れなくていいの?」アメリカ人はすぐこういう個人主義みたいなことを言う。親がダメだというならば、かなわないと思うのが小さい子供の常だ。でもボストンは本当に叶えたいことなら、誰に反対されてもやるべきだと堂々と言い放つ。大人の顔色を見てやりたいことに蓋をする、日和見な自分が恥ずかしくなる。コンサバティブな態度は無難だが、気を付けて生きていると、大人になっても周囲と自分どちらかを選ぶ瞬間はしょっちゅう訪れる。それに気づいて方向をつけていくうち、強くて意志的な態度が身についていくのだろう。
ボストンは、私を自転車にのせ、荷台をもって一緒に走ってくれた。
「後ろを持ってあげるから、前に進むことだけを考えるんだ。」自転車を支えてばたばた走るのはとても大変そうだったけれど、信じられないほど長い時間、ボストンは荷台を掴んだまま走ってくれた。ぐるぐると広場をまわる。自分の脚も動きが動力に伝わって自転車の車輪を回す。後ろを気にするたびにぐらつく私に気づいて師匠が言う。「僕のことは忘れろ、前に進むことだけを考えろ!できるって信じて、前に向かって走るんだぞ!」ゴーゴーゴーと掛け声をかけられ、ひたすら漕ぐ。
広場は薄暗くなり、だいぶ時間がたった。
よろよろ走り、グラグラとしていた車体が、スッと軽くなった瞬間があった。風になったみたい・・・すごいすごい、速い速い!夢中で広場をぐるぐると回り加速する。一瞬ボストンのことを忘れていた。
「ブラボー!」師匠が大笑いしている。「乗れたじゃないか!やったすごいぞ!」スピードに乗ったところで、師匠は荷台を離して、自転車を野に放ったのだ。成長はする本人にも見守る師匠にも喜びと達成感をもたらす。
ぐるぐるぐるぐる…いつまでも回る。嬉しくて飛び跳ねそうだけれど、次第にうしろめたい気持ちがむくむくと起こる。私は自転車に乗ってはいけない、でも実はもう自転車に乗れる。秘密の練習をしたからだ。自分の世界を広げるために初めて大きな秘密を持った。
大事な秘密はクローゼットにある
スピルバーグがETをクローゼットにかくまう場面を考えたとき、想定していたのは何だろうか?きっとそれは捨て犬を拾った経験なのではないかと思う。ETは知的生命体、しかも植物学者なのだから失礼な話だが、エリオットがETに出会った時にどういう行動に出るか、彼の判断がタブーと対峙したとき、どうするか?ここがこの映画の導入の胆だ。エリオットは10歳、ちょうどボストンの年頃。
彼の世界で一番正しい想定である「大人」が事実上の敵役だという設定には、拾った犬を捨ててこなくてはいけない事情と通じる人生の摂理がある。病気があったり、人のものだったり、リスクがあるし、飼うとなると費用がかかるから犬を隠してはいけない。子どもには経済力も責任能力もないから、勝手に犬は飼えない。ましては宇宙人をクローゼットに隠してはいけない。そんな軽率な行動のせいで地球が滅亡してしまうかもしれない。そうかもしれないけれど、エリオットは自分の感覚を信じて、行動を決定した。西部劇でしばしばジョン・ウェインが下す決定と同様、リスクを含めて自分の意志を信じる、良くも悪くもアメリカ的な考え方だ。
幸運なことに、ETもスピルバーグもエリオットを愛していたから、結末は穏便な感じで収拾する。ただし、エリオットの人生は変わってしまっただろう。一生政府に監視される人生になってしまったかもしれないし、少なくともETと出会わない人生とはまったく違う方向性を余儀なくされた。一番の変化はエリオット自身が他の子どもと違うという自覚をもったこと。つまり宇宙人の親友がいて、満月の空を自転車で滑空した経験のある特別な子どもになってしまったことを知っていること。
ゴーゴーゴー後ろを向くな!
だいぶスケールが違うけれど、私もボストンという師匠と遭遇し、知ってしまった。
どうして自転車がNGか、親としてはリスクヘッジだったのだと思う。理由はわからないけれど、禁止されていることを秘密裡に実行し、夢を手に入れた喜びはあまりにも大きかった。お母さんはいつも正しい、正しい道を行かないのはリスクだ、それでも私の望みは母の願いとは違う。力の差が歴然な以上、夢を叶えるつもりなら、大人には言わずに準備するべし。嘘はつかない、ただ誰にも言わないだけ。生まれる家を間違えたのか、それから私が夢を追えば追うほどに、親を失望させるジレンマが始まってしまった。
良いことがあると、今でもふっと荷台が軽くなったあの瞬間を思い出す。ボストンは確かに押さえていてくれたし、倒れようとする自転車とは逆のベクトルに力がかかる感じも覚えている。脚の運動を車輪に伝えることに集中することで、スピードが生まれ、力の均衡が発揮され、自転車は風に乗って走りだす。「ブラボー!」チリチリの頭を揺らし、眼鏡がずれるほど大笑いをして喜ぶ師匠の声が聞こえてくる。
今はもうすごいおじさんになっているだろう。ボストンか、アメリカのどこかで元気で生きているだろう。まだどこかの弱虫の荷台を押さえて「ゴーゴーゴー!」と叫んでいるのかもしれない。