「私はこっちで彼はあっちなの?」「そうだよ、あたしにははじめからわかってたんだ。」そういって豊満な胸をぎゅっと押し付けてきた。生ぬるい肌がたまらなく悲しい気持ちにさせる。彼女を突き飛ばしたい衝動に駆られた。 だってAはわかっているのだ、私がそんなに強くないこと、彼女を捨てて逃げるに違いないこと。
< 連載 > 映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。 |
面倒な映画 13
金木犀の花が香ると胸が苦しくなる理由
「愛を乞う人」
悪女は王子様には救えないのか
ハロウィンになると、露出が増えるのはディズニーの悪役「ヴィランズ」たち。魔女や魔法使いが黒や紫の衣装をまとい、怖い顔が街にあふれる。悪い奴は破滅するのがおとぎ話のセオリーだが、王子様の救いが切実に必要なのは、愛らしい白雪姫よりも、生き方が複雑に込み入ってしまった魔女のほうじゃないのか。むろんそれは難しい、悪を選んだ複雑な女の人生を若造になど救えるもんじゃないのだ。
悪女といえば、こんなにすさまじい悪女は日本の映画には珍しい。「愛を乞う人」は病的に暴力をふるう母親豊子から逃げ出した照恵が、大人になって亡くなった父の遺骨を探す話だ。父の遺骨を探す旅をしながら、彼女が探していたのは「本当は自分を愛していた」かもしれない母親の心だった。
母親になるというのは恐ろしいことだ。赤ん坊は母親なしでは生きていられないだけに、自分の中の悪をよく見張っておかないと、赤ん坊に君臨したい欲望に負けてしまうかもしれない。単純に大人の力は乳幼児よりも強いから、恐怖と痛みで子供をいいなりに支配するのは簡単なのだ。この映画の豊子は、まさに悪に冒された人だった。見ていられないほど理不尽な暴力で娘を支配するほかに関係をもつ方法がわからない。
美しい豊子には、王子様も現れた。何度か本当に愛される可能性もあった。照恵の父親は温和で愛情深かったが、今一つ体力がなかったのだろう。己に向けられる暴力、愛を試す攻撃は耐えられても、妻が幼いわが子にふるう暴力を見かねて、娘の手を引いて妻から逃げていく。次の男も、その次も、心優しい男と巡り合うけれど、どの王子も彼女の悪を制圧することなどできなかった。悪女が悪の呪いを解かれるのは、打たれて育った強い娘が母と向き合うときまで待たなければならない。暴力が辛い映画だが、いい映画だと思えるのは、ひたすら被害者だった娘照恵が、大人になって自分も母親になり、許せない母を理解したいと願うこと。旅をし、人と出会いながら、憎しみを超越していく様を見ることで、どんな破滅的な関係にも、出口があるという力強い希望が伝わるからだ。
でも現実には、そこまで険しい関係から逃げずに、悪女と対峙する強い人間はそういない。最初は刺激的で面白くても、やがて常識が通じない振る舞いや挑発的な態度にうんざりして誰もが離れていく。孤独な悪女は自分を自分の人質にして傷つけ、破滅へ向かってしまうのだ。弱い人間は、悪女を愛してはいけない、お互いにためにも近寄らないに越したことはない。彼女は悪い女ではなかったのかもしれないが、私は自分の弱さで、友達を捨てた夜のことを今だに忘れられないでいる。
あんたはこちら側の人だから
ようやく始発が動き始めた。少しあいた窓の隙間から猫がこっちをじっと見ている。片方は黒だが、もう一方の目が金色なのは朝日のせいか、邪眼なのか。一睡もできないでいる私の横で、家主はいびきをかいて熟睡している。天井からFカップのブラがいくつもぶらさがっていて、鍾乳洞みたいだ。なぜか全部ラベンダー、カップが大きいと可愛らしい色がないんだそうだ。20年も前の話だからどういう経緯でAの家にたどり着いたのか覚えていない。たまたま再会して、盛り上がり、終電を逃したのだ。
「あたしバイトでAVやってんの。25だともうばあさんだから年増キャラだけどね。」本当かどうかわからない、この人には虚言癖もある、私を牽制しているだけかもしれない。「数時間の撮影で50万、OLなんてもうできないよ。」どこに住んでいるのか親にも知らせていないらしい。「先週、親に見つかっちゃって、鍵かかってないから勝手に部屋に入ってきたらしいの。布団から足が4本出てたってさ、お父さんそのまま帰ったって、笑えるでしょ?」4本足のうち2本の主は六本木で知り合った若い男で、怪しい商売をしている。現場がここかと思うと、ゲンナリして帰ろうかと思ったとたん、心を読んだように「あたしには初めて会った時からわかってたんだ、あんたはこっち側の人間だって。だから帰らないでよ。」泣きまねをされて、それでその夜は帰れなくなった。
「市役所に就職したB君のこと憶えている?あなたに会いたがっていた。今度3人で会う?」Aは返事をしない。「あのマジメ君、あの子は所詮あっち側の人間なんだよ、付き合ってもうまくいかない。わかりあえない。」「私はこっちで彼はあっちなの?」「そうだよ、あたしにははじめからわかってたんだ。」そういって豊満な胸をぎゅっと押し付けてきた。生ぬるい肌がたまらなく悲しい気持ちにさせる。彼女を突き飛ばしたい衝動に駆られた。 だってAはわかっているのだ、私がそんなに強くないこと、彼女を捨てて逃げるに違いないこと。
オレ、Aが好きなんだ。
Aはコケティッシュでグラマーで、雨に濡れた捨猫のような目をしている。これが映画なら、何があってもカットがかかれば終わるけれど、彼女が今いる修羅の世界は血が出そうにリアルで終わらない。堕ちるところまで堕ちる前に自分で抜け出さない限りは。酔った彼女が寝付くまで、悲惨な身の上の話を聞きながら、心の中で「ごめんね、私にはもうあなたは愛せない」言い訳をするしかしょうがなかった。
少女の時から異性の目を惹き、同性に憎まれる。「複数の男と付き合っている」「男の家から来たから服装が同じだ。」「クスリやってる」「おじさんのパトロンがいる」いつも貼られるのは悪い子のレッテルだった。噂をされているのを知っていて「家出中だから彼の家のバスマットをスカートにしたの、かわいいでしょ?」「バイト先の社長が靴を買ってくれたんだ」とわざわざ言う。眉をひそめて魔女狩りに勤しむいい子の群れにダイブするように挑戦的な態度で。魔女狩りは醜悪だけど、自分だって友達ぶった顔をしながらAの底なしの女力が怖かった。10代で愛人説があるほどにグラマーでセクシーというだけじゃない、彼女の感情は渦のような求心力があり、近くにいる心の弱い人間を自分の苦しみに巻き込むのだ。インモラル、自由で魅力的だけど破滅的、近づきすぎると地獄に道連れにされる。
そしてある日、マジメなB君が彼女に恋をした。「Aは普通の子と違う。B君が関係築けるような子じゃないと思う。」お節介を焼かずにいられないほど、私には彼が悲しい思いをする予感しかなかった。
案の定、数日後Aが「こないだダサい男からクマもらったんだよね、ムカついたから、近所の凶暴なビーグル犬に投げてやったら、ギタギタにしちゃったよ。」この話のどこが面白いのか、ゲラゲラ笑っている。そのクマには心当たりがあった、世の中には知らないほうがいいことはいくらでもあるものだ。もしそのクマが今も彼女の手にあったら、もっと違う道を歩いていたかもしれない。その後、B君と呑むことがあっても、彼女のことは一言も言わなかった。彼女の窮地を知らせる、それも考えたけれど、きっと優しいB君をさらに傷つけるだけだろう。悪女は王子様には荷が重いのだ。
「朝ごはん食べてく?あたしね、毎日ホウレンソウと納豆食べてるの。 栄養あるもの食べていれば、大丈夫、いつかいいことあるよ。」眠っているうちに帰ろうとした背中にAの声が追いかけてくる。「また会えるでしょ、電話していい?週末呑みに行こうよ。」曖昧な返事をして、まるで一夜限りの関係を振り切るようにバタンとアパートのドアをしめた。
外はぼんやり温かい初秋で、アパートの脇の金木犀が咲き、甘い匂いをさせていた。これは罰なのか、呪いなのか。顔も朧げなほど月日がたったのに、木犀の花が咲くたびに、あの夜の彼女の甘い体臭と、温かい乳房の感触が生々しく蘇る。