氷が溶けるまで【第1話】ベトナムで暮らそうと言われても – スーツケースひとつだけの新生活 - 武谷朋子

ベトナム在住トラベラー武谷朋子の氷が溶けるまである日、急展開が起きた。夫が海外で働くことになったのだ。行き先は東南アジアのどこか、らしい。「どこかって、どこなのよ… 」ああ、行き先がヨーロッパだったらなあ、と何度も思った。今までに行った大好きなヨーロッパの国々だったら、迷うことなくスムーズに海外暮らしの決断ができた気もする。さて、いきなり浮上してきた東南アジアでの生活。

連載「が溶けるまで」とは  【3週間に1話 更新】
ヨーロッパひとり旅と写真を専門とし、働きながら「自分にしかできない一点物の旅」を10年以上続けてきた武谷朋子さんが、突然夫の転勤によりベトナムはホーチミンに移住することに。(本当はヨーロッパが好きなのだけど…. )知り合いもいない、そして、もともとそんなに興味が持てなかった国で始まった、すべてが新しい暮らし。彼女は導かれたその状況をどのように「楽しみ」に変え、はじめての街の魅力を発見していくのか。まだ知られていない本当のベトナムとは。ガイドブックには載らない、暮らしてみてわかった小さな魅力の種を綴ります。

 

第1話  ベトナムで暮らそうと言われても – スーツケースひとつだけの新生活 –  

TEXT & PHOTO 武谷朋子

 

ある日、急展開が起きた。夫が海外で働くことになったのだ。行き先は東南アジアのどこか、らしい。

「どこかって、どこなのよ… 」

ああ、行き先がヨーロッパだったらなあ、と何度も思った。

今までに行った大好きなヨーロッパの国々だったら、迷うことなくスムーズに海外暮らしの決断ができた気もする。さて、いきなり浮上してきた東南アジアでの生活。

どうしよう…。これは大きな決断だわ…。

正直なところ、一緒に行くかどうかちょっと迷った。というより不安がかなりあった。海外のひとり旅は何度もしてきたけれど、海外での留学や暮らした経験はない。しかも、ヨーロッパばかり行ってきたので、アジア諸国はたった3カ国行ったのみ。ほとんど知らないも同然。旅ならまだしも「暮らす」となった場合に生活のイメージが全然できなかった。日本での仕事も辞めないといけないし、向こうに知り合いもいない。それまでの環境は本当に恵まれていたので、あまりにもガラリと変わりすぎる環境で実際やっていけるのだろうか…。顔には出していなかったが猛烈な不安があった。

なじみのない国でのゼロからの暮らし。イメージしようにも、素材が足りなさすぎる。イメージができないと、不安がどんどん募る。好奇心から想像もできない東南アジアで暮らしてみたい気持ちと、本当に暮らすことなんてできるのかという不安な気持ち。好奇心と不安を行ったり来たりする日々。帰国日の決まっている旅の出発とは違うのだ。不安だなあ…。

しばらく悩んだが、最後はやっぱり好奇心に従うことにした。

海外に住むことを決めたあと、ずっと気がかりだった引っ越し先の国がようやく決まった。それは、ベトナム。

「ベ、ベトナムですか…… 」

 

 

ベトナムで迎えた初めてのクリスマス…道を渡れる気がしない…

ベトナムで迎えた初めてのクリスマス… 道を渡れる気がしない…

 

 

 知識が立体化していく
世界史がつなげてくれた世界への興味
 

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そもそも海外、それ自体は大好きなのだ。数えてみたら、海外の旅を始めてから今年で16年目になる。

働きながらもなんとか取れる休みを使って、自分が行きたいところを行きたい気持ちが高まった順番に巡ってきた。年単位の長期の旅ではなく、毎年1回程度、平均10日前後の旅。数年に1回は1ヶ月程度の長めの旅を挟みながらも毎年こつこつと旅を続けてきた。行った国数を増やす旅には昔から興味がなくて、人気の国ランキングや流行りなんかも関係なく、自分が本当に行きたいと思えるところだけを旅してきた。その結果、今までの旅先はほとんどがヨーロッパ。白地図に色塗りをしてみたら、見事な偏りっぷりだった。

海外の旅に興味を持つきっかけを作ってくれたのは、高校で選択していた世界史だった。日本史に出てくる人名がみんな似たり寄ったりでどうしても覚えられず、消去法で選んだ世界史。これが結果的にわたしの興味を大きく広げてくれた。(世界史の方が人名も似たり寄ったりだし、国ごとに人の名前を覚えたりしなければいけなくて、逆に覚えにくいじゃないか! と選択してすぐ気づいたのだけど)。

世界史の中でも、ヨーロッパの歴史がとにかく複雑で、選んだことを途中で後悔するほど学ぶのに苦労した。そんな過程の中で、なんとか楽しみを見つけ出そうともがくうち、いつしかそのもがきが興味へと変化して、その世界の今を自分の目で見てみたいと思い始めていた。その衝動が押さえられず初めてヨーロッパに出かけたのが大学生の時。旅先に選んだのはドイツとオーストリア。友人と2人旅だった。

初めてのヨーロッパならここだ! とほとんど迷わず選んだのだけど、「なんでその2カ国なの?」と不思議そうに聞かれることが時々ある。どうやら一般的には渋いチョイスらしい。ドイツとオーストリアを選んだのは実は単純な理由で、世界史の勉強の中でも、特に覚えるのに苦労したということからだった。こんな動機で選んだことは、実はあまり人には言ったことはないのだけれど。

「覚えられない、頭に入ってこない…  ああ、しんどい…。」なんていう日々が続いていて、この2カ国の歴史を必死に勉強したことをよく覚えている。苦しい時期というのはおもしろいものだなあと思う。その状態のまま先へ進めるのはどうも苦手で、なんとか自分の興味とリンクさせようとしていた。わたしの場合はビジュアルからのアプローチが特に効いて、ボロボロになるまで資料集を読み込んでいた。そうしているうちに、ビジュアルから見えるヨーロッパ各国、特にドイツ・オーストリアを自分の目で見たくなっていた。苦しい時期を経験して、新たに生まれた興味。

そんな憧れ続けた初めてのヨーロッパ。そして一番最初に行きたかったドイツ・オーストリアに初めて自分の足で降り立った。建物や装飾の華やかさが資料集やガイドブックで見ていたそれの迫力とは全く違った。今そこに自分がいることが信じられないくらい、見るもの全てが本当に新鮮だった。

そんな旅の最後に訪れたウィーン。シェーンブルン宮殿という世界遺産にもなっている宮殿がある。この宮殿内に、かつて18世紀のオーストリアで女帝として君臨していたマリア・テレジアのという有名な女性の肖像画が飾られている。

「うわ! 資料集で見ていたあのマリア・テレジアじゃないか! 」

「彼女もかつてこの宮殿内にいたのか! 」

遠くまで見渡せる宮殿のホールを感動と共に一歩一歩踏みしめる。天井まで広がる豪華絢爛な装飾は、時を越えて今なお輝いていた。

教科書や資料集などでしか見たことのなかった景色を目の当たりにし、世界史を学んでいてよかった!と初めて思った瞬間でもあった。過去に学んだことが、旅で活きるなんて。紙の上で文字や写真だけで見ていた歴史が急に立体感を帯び、リアルになった瞬間。その時の衝撃がずっと残っていて、それが今でもわたしをヨーロッパへと掻き立てるのかもしれない。世界史から学んだことを少しずつ立体化するような旅だった気もする。

初めての旅でヨーロッパに完全に魅了されてしまい、それからわたしのヨーロッパへの熱は更に上がっていく。もはやずっと微熱が(旅に出ている時は高熱)が続いている状態。よくもまあ、これだけ熱が維持できるものだとわれながら思う。好きなことは? と聞かれたら、間違いなく「ヨーロッパの旅」と即答してしまう。初めてのヨーロッパに感動してからというもの、翌年からヨーロッパの他の国をめぐる旅が始まった。

これまで、

ヨーロッパ一標高の高い場所からポストカードを出す旅
ユーラシア大陸の最西端に向かう旅
シャンパンづくりを学ぶ旅
クロード・モネ(フランスの画家)を知る旅

など、観光地をただ巡るというよりは、自分のやりたいことをベースにヨーロッパの旅をつくって行ってきた。知っているのと実際に見てみるのは、全く違う。自分の目で見てみることの大切さと、旅を通じて普段の生活では体験できないことをたくさん経験することができた。実際に旅をして、また恋い焦がれて次の旅を考える日々。きっと今のわたしの大部分は旅からの影響でできているのだと思う。それくらい、とてつもなく大きな経験だった。

 

 

 ヨーロッパ旅のサイクルに
圏外から割り込みが入る 

 

「ヨーロッパの旅」というライフワーク。時々、なんてライフワークを持ってしまったんだろうとふと思う。旅の最後はいつも、概ねの満足感と  ”ちょっとのやり残し感”  がある。

「いつかまたここに戻ってこよう」

そう思って、切ない気持ちと共にいつも旅の最終日を迎える。旅がひとつ終われば、また次の旅のことを考え始める。もうこれは完全なサイクルになっていて、流れるプールのごとく、水の流れは年中気持ちよいほどに順調なのである。

ヨーロッパの旅は好きで始めたことだけど、飛行機のフライトだって片道平均10時間以上はかかるし、往復で換算すると移動だけで丸3日間は潰れる。長距離の旅になるから当然航空券代だって近距離よりは高くなるし、移動時間を含めると長く休みを取れる時にしか行けない。簡単には行けないけれど、日程の関係で行きたい旅先を諦めることがいやで、最大限の調整をしながらヨーロッパ方面への旅を毎年のように続けてきた。仕事も遊びもやりたいことに妥協はしたくない。

せっかく海外に行くのなら、やりたいことをとことんやりたい。旅の時間を自分の好きなことで埋め尽くしたい。有名どころをただ押さえる旅ではなく、あくまでも自分の興味に素直に。時には同じ国や都市にも再訪することもあった。数を追わずゆっくり巡る、自分のための旅。

そんな溢れるヨーロッパへの情熱が冷めることなんてなく、また次の旅をふつふつと考え始めていた。

夫が海外で仕事をすることになると決まったのは、そんな矢先だった。しかし行き先は、なじみのなかった国、ベトナム…。

 

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 環境を大きく変える決断
最後は自分の好奇心を信じてみる  

 

日常の中のベトナムといえば料理くらいで、行ったことも接点さえもほとんどない。正直なことを言ってしまうと、ベトナムは何かのついでにいつか行けたらいいかなあ、くらいに思っていたので、わたしの次に行きたい国のリストではいつも圏外だった(ベトナムよ、ごめんなさい)。そんなベトナムが、別ルートからぐぐっとわたしのリストに急に割り込みしてきたのだ。

モチベーションを高めるためにまず基本のガイドブックを買ってみたところ、やはり料理と雑貨がおすすめらしい。確かにベトナムに行ったことある友人たちからもそんな話を聞いていたが、逆に言うとそれくらいしか聞いたことなかった。それがベトナム初心者のわたしをさらに不安にさせる。

「ベトナムは料理と雑貨だけなのかな…  雑貨はデザインの好みとかもあるしな…  」

「ごはん ”は” おいしいから! と言われたけど、楽しみがそれだけだったら…  」

ガイドブックを読み進めるうちに、ベトナムには、今まで旅先で楽しみとしていたことや興味のある場所(例えば美術館や建築、デザインなど)がほとんど見当たらないという悲しい現実を知ってしまった。ああ、自分の興味との共通点が少ない…。心のより所が…。でも、海外に住むこと自体には興味があるし、ほとんど知らなかった国を知る絶好の機会でもある。うーん…。

海外行きは決めたのに、ベトナムと聞いてやっぱり心が揺らぐ。もう、ぐらぐらと。そんなせめぎあいが続きながらも、最後の助けになったのは、ビジュアルだった。世界史を学んでいた時にも助けになったビジュアルで気持ちを盛り上げる作戦にでてみた。早速、料理や街の様子など写真がたっぷり入っているガイドブックを追加で入手。

「この食べ物はどんな味がするんだろう」

「フランスの影響を受けた文化って、実際どんな感じなんだろう」

このビジュアル作戦は結構効いたのだけど、友人に話したら必死にモチベーションアップを試みる姿を見事に笑われた。ああ、食いしん坊でよかった。フランスにも興味があってよかった。興味の細い糸を探りながら、ここなら何とかやっていけるかもしれないという気持ちが少しだけ持てた。

よし、ベトナムで暮らしてみよう。気持ちが固まったら、事は大きく動き出した。

 

 

 いつの間にか溜め込んでしまったものを
潔く手放してみる 

 

海外への引っ越し準備をする中で、荷物の問題が立ちはだかった。日本に家がなくなるので、当然家具や家電は置いておく場所がない。そうなると家の中のほとんどの物をリサイクルに出したり処分したりした。置いておく場所がない、というのは強力な動機になって、思った以上にどんどん荷物は減っていった。

「余分なもの、たくさん持っていたんだなあ…。」

一部は荷物だけ別便で海外に持っていくことも考えたけど、大きいものになると輸送費だけでも結構な金額になりそうだった。最初から本当に使うか分からないものにそんなにお金かけてもな…。と思い、それならいっそ「持っていかない」という方向に変更した。

ミニマムな荷物でベトナムで暮らせるか。まさに、暮らしかたの実験。

ベトナムでの新しい生活への不安はまだまだ拭いきれず、ふとした瞬間に「あれも持っていった方が…」なんて考えがよぎる。今までの日常生活にあったものを持っていればちょっとは安心なんじゃないか、なんて思ってしまう。物と自分との接点があると、何だか安心する。でも、同時に荷物も増えしまうのだ。

不安が募ると荷物が増える方程式。

でもこれじゃ、キリがない。スーツケースがいくつあっても足りない。そう思って、「海外に持っていく荷物は65リットルのスーツケース1個に収まる範囲にする」ということを自分の中で決めた。65リットルというのは大体「4−6泊分の海外旅行用」として売られていることの多いサイズ。

入らない物は持っていかないという、シンプルなモノサシ。

 

 

 やってみてから考える
モノサシを決めたら、あとはシンプルに進むだけ  

 

今までの引っ越しは、「スペースがあるから一応取っておこう」というような甘い考えでずるずると新居に持っていった物もあった。65リットルのスーツケースに入れられる量はそんなに多くない。容量というモノサシが決まると、あとはそれに入るか入らないか。限られたスペースに入れるための吟味を1点1点繰り返す作業。海外暮らしならあった方が便利だよ! とアドバイスいただいた物もたくさんあったのだけれど、入らないものは潔く諦めた。(例えば、炊飯器とか。)

初めての海外旅行の時もそうだったが、不安になると荷物を入れることで不安を軽減しようとする。ただ、毎年旅を重ねる中で、無駄な物が分かってどんどん荷物が減っていったのだった。今では1週間程度の旅行であれば、65リットルのスーツケースの半分もいかないくらいで荷物が収まる。半分以上はからっぽ。けれど、ベトナムで生活するという全く新しい環境を目前にして、海外の旅を始めたあの頃のわたしに戻っていたことにはたと気付いた。

「不安はまだあるけど、決めたモノサシの範囲でまずは行ってみて、それから考えよう」

足りなかったら向こうで買い足せばいいじゃないか。重い荷物はきっと自分のフットワークも重くする。海外生活なんてしたことないんだから、今のわたしにはきっとどこまで物を持ってもこの不安は解消されないような気がした。

最終的にこのスーツケース1個で空港にたどり着いた。見た目はいつもの海外の旅と全く変わらない荷物の数。この飛行機がベトナムに着陸した瞬間から旅じゃなくて生活が始まるのだ。もう後は行ってから考えよう。

スーツケース1個で始まった、ベトナム・ホーチミンでの新生活。到着早々、次から次へと予想の斜め上を行く驚きが待ち構えていたのだった。これはまた次のお話。(了)

 

出発日の朝の空港で。ああ、これから始まる。いろんな意味での「DEPARTURE」

出発日の朝の空港で。ああ、これから始まる。いろんな意味での「DEPARTURE」

 

(次回もお楽しみに。3週間後、更新目標です)
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 連載バックナンバー 

第1話 ベトナムで暮らそうと言われても(2015.9.24)

 武谷朋子さんの旅エッセイもどうぞ 

TOOLS 29 海外へは乗継便で飛ぶ。ファイナルコールまでにもう1カ国味わう方法
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武谷朋子

武谷朋子

(たけたにともこ)自由大学「じぶんスタイル世界旅行」キュレーター/トラベラー。『自分にしかできない旅をする』をキーワードに、大学時代から主にヨーロッパへカメラ片手に旅を続け、これまでにバルト3国からユーラシア大陸最西端まで20ヶ国50都市以上を訪れる。社会人になってからも働きながら年1回のペースで自分らしい一点物の旅を創り、旅を続けている。渡航歴は10年以上。ここ数年は旅の経験を生かして"テーマを持ったひとり旅"のおもしろさを伝える活動を行っている。旅先で見て感じた空気を写真に残すことを続けており、撮った旅の写真は1万枚以上に及ぶ。現在では旅以外に、企業・雑誌広告などでの撮影も行っている。2014年冬より生活拠点をベトナムに移し、旅とはまた違った視点で世界と繋がる日々。活動の詳細は自身のWEBサイト 「TRANSIT LOUNGE」にて