面倒な映画帖 12 食われっぷりがすばらしいロナルド弁護士に愛「ジュラシックパーク」

面倒な映画帖

この手の映画では、活躍するヒーロー以上に、彼ら犠牲者キャストが重要。存在感があり、人間の薄暗いさもしさを象徴し、かつ愚かさゆえに滅びる運命。X時間に向けて自らの命の重さを割引いていき、小気味よく頭からパクリとモンスターの犠牲になりうる、悲哀とおかしみのある稀有なバイプレーヤーを見事にはめている。さすがスピルバーグ。

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モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。



面倒な映画 12
「ジュラシックパーク」

世界一の食われっぷりがすばらしいロナルド弁護士に愛

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あえて、最前列に座ったせいで、ティラノサウルスの息が匂いそうなほどの迫力で観た恐竜映画。映画好きというのは、驚くのが好き。スピルバーグは古典的なサービス精神の備わった作家なので、こういう大仕掛けの見世物はちゃんとスクリューボールで展開していく。小さなほころびのような事件がおこり、その事件を種に事態はどんどん収拾不能なレベルに登りつめ、転がり落ちるようにクライマックス!うまい!名人!

猛獣ショーのお約束としてピエロは欠かせない。スピルバーグはエンタメの王様だから、キャスティングも天才的だ。特撮にお金がかかるので、メインアクターもアンサンブルの渋いバイプレーヤーで固めた。ヒーロー以上に気を付けていると感じたのが恐竜の犠牲者。新しい人物が登場するたびに、観客は本能的に「生き残る」「犠牲者」「こいつは勇敢に戦うけど誰かの犠牲になる」とかいう風にわかるものだ。ロナルド弁護士などは登場するなり「恐竜のエサ」めいた顔をしているのだから。明確な悪というより、拝金主義でグレーな人物で、ハーバード卒のSEとともに、いかにもパクッと食われそうな感じがしてしまう。案の定映画の前半で期待通りに逃げまどい、悲鳴を上げ、恐竜のエサになるが、観客はなんの罪悪感もなく、やっぱり死んだかと思うのである。存在感があり、人間の薄暗いさもしさを象徴し、かつ愚かさゆえに滅びる運命。X時間に向けて自らの命の重さを割引いていき、小気味よく頭からパクリとモンスターの犠牲になりうる、悲哀とおかしみのある稀有なバイプレーヤーを見事にはめている。さすがスピルバーグ。

さらにITも面白い、巨大なコンピュータを何台も連ね、懐かしいディスプレイも登場する当時の「最新鋭マシン」のすさまじいレトロ感。20年前というのは、ITの世界ではあまりにも大昔、まさしくジュラ紀より遠いのかもしれないと思えてしまう。それこそ当時の最新CGや特撮技術を駆使して登場する恐竜には、出てくるたびに映画の人物たちと一緒になって感心するやら、怖いやらだが、ティラノサウルスよりも恐ろしく、現在公開中の「ジェラシック・ワールド」に至るまでシリーズ通して脅威になるのがヴェロキラプトル。チームで狩りをする頭のいい恐竜だ。ラプトルの目が細くなり、獲物にとびかかる瞬間の怖さと言ったら、とりあえず今あれが実在しなくてよかったと心から思う。映画史上エイリアンばりに残忍で悪魔的な悪役だ。悪そのもののようだが、彼らに悪気はない。野生の掟に沿って獲物を狩り、子どもを育てているだけ。生きている動物の命を取って自分を生かすのが彼らの流儀にすぎない。好きにはなれないが、ラプトルは、映画が主張するひとつの理念、自然の掟をやぶり、時間を巻き戻してしまうことで引き起こすダークサイドの化身にすぎない。

生まれながらの獲物キャラ

18の時、私は重量物を運ぶバイトを始めた。初めての日、先輩がよろけたせいで、ビルの階段室の壁に頭をしたたか打ち付けてしまったが、先輩は面白いものを見たように私を指さして笑った。この意識がぼうっとするほどの激痛もむしろ諧謔として解釈するのがこの群れの掟なのだろうと思い、腹を立てずにいた。それまでの常識では、人に痛い想いをさせたら、謝るべきだし、なるべく早く回復するように助けるべきだと教わってきた。でも、この群れはそうじゃない、もっとワイルドで力が支配する新しい世界なのだ、海賊の世界みたいにピカレスク的暴力や痛みを笑い飛ばすマッチョな世界なのだと。頭が痛いくらいで、泣き言をいうのは弱虫のすること・・・新しく強くなった自分を誇らしくさえ感じていた。後発の個体は、群れの掟を経験的に学び、なんとか早く受け入れられようとするものだ。

数週間後事件がおこる。運んでいる書棚が重すぎ、私が一瞬力を緩めたせいで先輩の足の上に棚の角が当たってしまったのだ。「痛てえ、バカ野郎。気を付けろ!」と怒鳴られたので、作法通りに笑ったのだが「人を痛い目に合わせて笑うのはおかしいだろう!」とふっとばされてしまった。そのまま私は非常識なバカ女としていじめのターゲットにされ、あげくバイトを辞める羽目になった。そのこともショックだったが、もっと傷ついたのは 幻想を壊されてしまったことだった。痛みを笑い飛ばすピガールな新しい常識、そういう哲学を理解したいと思った。でも現実は「痛いのがお前の頭なら俺は痛くない、俺が痛いのは自分の傷だけ」というただの偏狭な人間のエゴしかなかった。私が勝手に拡大解釈していただけで、先輩は胸のすく悪漢ではなく、いじわるな男だった。バイトの掟はアバンギャルドでもなんでもなく、古臭くて理不尽な上下関係や暴力の図式にすぎなかったのだ。

散々人間を殺し、血の海に鉤爪を立てて狩りをするヴェロキラプトルは映画のラスト近くで海に向かい立ち上がる。生き残りの登場人物たちとヘリコプターで島を出た観客はその夕日に立つ悪魔たちの姿を見つめ、彼らが「渡り」への憧れを抱いていて、生物はいずれ道を見つけるのだ…というロマンのような、映画の続編予告のような考えを吹き込まれる。 数秒前までは敵で、お互いが殺戮の対象だったラプトルを「鳥の祖先」として感慨深く眺める気持ち、それがケチな先輩をピカレスクの英雄のように思ってしまったセンチメンタルな自分と重なり、笑いがこみ上げた。違う、違う、彼らはお前の敵だぞ。蛮行の根拠が野生だろうが、悪意だろうが、やられるのは同じ。犠牲者は犠牲者にすぎない。

だけれども弱者には弱者の哲学がある。生まれつきの獲物キャラは、人生のおしまいに頭から恐竜に食われるようなカタルシスを得たいと思う。とことん間抜けな結末こそ、追い詰められた獲物の花道なのである。だから昔のコメディ映画さながらに、わざわざトイレでズボンを下ろしたタイミングで、バイオでよみがえったティーレックスに頭から食われるという大仰な死に方をするロナルド弁護士に、スピルバーグの格別な愛を感じ、獲物キャラのマスターピースを見るのだ。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在はフードを中心としたウェブサイトの企画・編集の傍ら、ORDINARYに参加し、インタビューサイト「タコショウカイ」ではスタートアップの人を紹介するメディアも運営している。趣味は料理と映画と声楽。二児の母。