【第222話】自由人的、出世欲の扱いかた / 深井次郎エッセイ

リーダーになれる自分の城を持つ

リーダーになれる自分の城を持つ

 

 

大人になってからのほうが
純粋にバスケを楽しめている気がします

 

学生時代の部活と、大人の趣味ではどこが違うんだろう。レギュラー争いから解放されたというのが大きいかもしれない。中学時代の部活は、『スラムダンク』人気のせいか部員が多く、同学年でも40人くらいいました。3学年ともなると100人を超えるわけで、その中でレギュラーになれるのは5人しかいない。なかなか高倍率です。幸い、バスケとぼくは相性が合うのか、当時152cmしかないチビではありましたが中一の入学した頃からレギュラーで、中3の先輩の試合に出てたくらいにその学校と市内ではまずまず上手い子でした。スタメンは当たり前と思って生活してましたが、ある一時期、ふいにスランプになりスタメンを外されたことがあって、この時がはじめてかもしれません。なんともいえない「悔しい」という感情を味わいました。

 

好きなことが楽しめなくなるとき

 「自分のポジションが奪われた…」その子も仲いい友達だし、自分のふがいなさもあるけど、メキメキ力をつけてきたその子に対する嫉妬心なのかなんなのかを感じて、その感情をどう処理していいものかわかりませんでした。「監督はわかってないなぁ、俺のほうがうまいのに」と先生に反抗してみたり、「何だこの感情は? いやな感情だなぁ」と自分で自分がいやになりました。勉強も手に付かなかったし、チームメイトと競争する自分もイヤで、この感情はちょっと味わいたくないなぁと、苦手だと思いました。あんなに好きだったバスケが、ちょっと部活行きたくないなと思うほどになりました。純粋に好きなことも、他人の評価や競争が絡むと楽しめなくなることがあるという、いい教訓になりました。

大人の趣味のバスケは、そういうモヤモヤがありません。特に監督はいませんが、みんなで冷静にだれともなく「この人選がいいんじゃない?」「そうね」 「先に出ていいよ」「ここはきみが出たほうがいいよ」「疲れたから交代して」とか「俺が俺が」がないのがいい感じです。さすがは30代のおじさんチーム。余裕がある。

学生時代となにが変わったのかなぁと思うと、「それがすべてではない」という余裕。それぞれに仕事なり家庭なり「自分の城」を持ったから、バスケではポジションをゆずれるのです。学生時代は、部活が人生のすべてでしたから、レギュラーになれないというのは死活問題です。全存在をかけての激しい戦いになってしまいます。

ポジションを失って悔しいと思う。「なんであいつが」と思ったりする。すると「自分はなんて心が狭いんだ、性格が悪いんだ」と自分を責めてしまいがちです。でもこれは遺伝子にくみこまれたプログラムで、競争は、生存本能。無理もありません。生物として、相手に選ばれなかったら、自分の種を残せないわけなので、自然の反応です。とはいっても、本能に任せていたら、それは動物と同じ。理性こそが人間たるゆえんです。理性があるからみんなが気持ちよく過ごせるし、世界は平和になるのです。

 

会社の出世競争も
降りてしまえば楽しめる

 この間、ある大企業エリート会社員(50代)と話しましたが、その人は東大をでてアメリカでMBAとってという勉強できるタイプの人です。でも、管理職としては部下からの人望がないというか、コミュニケーション下手(ちょっと冷たい)で「出世が同期に比べて遅れている」と悩み、うつっぽくなっていました。「自分には何が足りないのか。出世のためには、またなにか資格をとったほうがいいのだろうか」というわけです。

資格は勉強すればとれますが、出世できるかは自分の努力だけでなんとかなる問題ではなりません。上司部下に好かれないと難しい。彼の立場もつらいです。受験も就職も努力で勝ち続けてきた人生で、プライドは最高潮に高まっているのに、同期や部下にスルスルと抜かれて行く。性格を直せと言われても、生まれ持ったものがあるので難しいでしょう。努力でどうにもならない壁にぶつかってしまったのです。

一方ぼくはというと、中一の頃のスタメン落ちの悔しさ以降、競争がうずまく激流のところには足を踏み入れないで来ました。受験戦争にも就活戦争にも片足をつっこんだくらいで、あまり参加せず、マイペースで行きました。あの気持ちの悪い感情に自分が陥るのがイヤだったのです。これは勘です。そっちにいくと生命力が落ちるぞ、という動物的勘。激流の中では、ただ立ってるだけでも疲れます。

 

過剰な競争心は、好きなことを見つける時に邪魔になる

 好きなことをやって生きようとする場合、この競争心がありすぎるとうまく行きません。それが好きなのか、ただ競争に勝つために躍起になっているだけのか、区別がわからなくなってしまうのです。自分の好きなことを早い段階で見つけ、人生で本当に大事なことに集中するには、うまく負けることが必要。どうでもいいところでは負けたり、ゆずることです。

「自分よりも上手くできる人がいれば即ゆずる」戦いを避けて、ゆずってゆずっていくと、ついには自分にしかできないポジションに流れ着くことができるのです。いちいち戦ってたら時間がいくらあっても足りません。努力という言葉は美しいけど、「その努力って本当に必要?」「みんなを幸せにする?」という視点も大事です。

先の50代氏には、「出世を諦めれば、楽になるんじゃないですか」と話したら少し笑ってました。「開き直って諦めてしまえば、サラリーマンは案外楽しいかもしれませんね」

ぼくがおすすめしたのが「自分の城」を持ったらどうですかということ。「持ち家のことですか?」と勘違いしてましたが、「自分がリーダーのプロジェクト」を立ち上げることをすすめたのです。「会社ではしょせん駒です」と彼はいってましたが、駒だけの生活ではだれだって元気はなくなります。

 

リーダーとソルジャーとのバランス

リーダーだけでも疲れるし、ソルジャーだけでも疲れます。会社の出世競争でストレスを溜めている人は、自分がソルジャーだけしかやっていないから疲れるのかもしれません。ブログをやって自由に書き、自分の世界を表現しきるとか、複業で自分がボスになってプロジェクトを回すとか。草野球の監督をやるでもいいかもしれません。

自分の城があれば、他の場所では「自分よりも適任がいるならどうぞどうぞ」とポジションをゆずれます。会社でも草野球でもマンションの自治会とか同窓会とか、あれもこれもリーダーを勝ち取っていたら、やることだらけになってしまうし、リーダーをし続けるには努力をし続けなければならない。

 

ボス同士が集まる会合はどうなるか

各社の社長が会合に集まったら、みんなリーダーをやりたがるのではと思うけど、これが意外とゆずりあうのが面白い。だいたい「社長」なんて人種はボスキャラ度が普通より高い。でも、この場をだれが仕切るかなと思うと、多くの社長が「どうぞどうぞ」になったりする。彼らもリーダーしかできないわけではなく、ソルジャーとの切り替えが自由なのです。普段、「自分の城」でさんざん仕切っているので、外に出てまで仕切りたくない。他の人にリードを委ねたいというのはあります。強面(こわもて)のワンマン社長が、家庭では奥さんの尻に敷かれているというパターンはよく聞きます。

 

言いなりになる福山雅治

福山雅治さんのインタビュー記事を読んでいて、面白い話がありました。福山さんはミュージシャンであり、俳優です。「歌は自分が全部つくっているけれど、役者は監督の言いなりに徹する。このバランスがいいんです」と言っていました。歌ではリーダー。役者ではソルジャー。両方の立場を行ったり来たりできるのが健康的なのだと。作詞、作曲、歌い方、演奏、世界観など、いちいち全部決めなきゃいけないのは、やりがいがある反面、しんどいことです。その分、ドラマの現場では自分の考えは出さずに、監督の言いなりに、そのまま演じる。意見を戦わせるということはまずないそうです。

これは別の俳優が言っていたことですが、その俳優はミュージシャンにコンプレックスがあるそうです。「俳優はテレビで顔が知れて有名にはなるけど、自分自身のメッセージは何一つ伝えられない。セリフもしぐさも指示通りにやるだけです。自分の言葉はない。1人では何もできないんです。でもミュージシャンとか作家は自分のメッセージや世界観を伝えられる。だから羨ましい」のだと。

会社でソルジャー仕事だけで行き詰まってしまった人は、他の場所でリーダーになってバランスをとってみては。自分の城があれば、「出世? どうでもいいや」と思えるでしょう。そのほうが力が抜けて、結果的に良い仕事ができたりして、好循環になるものです。

 

 

(約3541字)

Photo:Zach Frailey

 

 

 

 


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。