【第212話】競争を降りて見えた景色 – かけがえのない自分を取り戻すために – / 深井次郎エッセイ

luke chan2

 

競争から降りればいい
でも日本でそれは可能なのか

 

「人と比べている限り、いつまでも幸せにはなれませんよ」あるがままの自分を受け入れるよう、さまざまな思想家は教えてくれます。頭ではわかっていますが、それは可能なのか。生まれた時から、歩けた、しゃべった、サイズが大きい小さい、ずっと競争させられてきたぼくらが、競争から降りることはできるのでしょうか。

 

遺伝で決まるのに
それで勝って嬉しい?

 

背の高さは、遺伝で9割決まると言われています。本人の意志と努力はほとんど関係がありません。背の高い人を見て、「彼は努力して鍛えたんだなぁ」と尊敬する人はいません。

同じように、(小さい頃は特に)人間の能力には、遺伝で決まるものがかなり多い。勉強が得意な人がいれば、苦手な人もいる。生まれつき、どんなに真面目にがんばってもできないという子はいたし、要領よく軽々とこなしてしまう子もいる。もともとの遺伝や才能で偏りがあるのが普通です。なのに、小学校に入学した途端、同じ条件で比較されたら、それはなんと厳しい世界かと思います。

幼児の運動会の徒競走を考えると、ほとんど遺伝子の勝負でしょう。本人がその日に向けて練習も努力もしてない場合、親のDNAですでに勝負は決まってる。勝った負けたの感動はありません。応援しているパパママたちは、まるで自分が勝負してるみたいに燃えると思いますが。俺のDNAがんばれと。

 

自分が勝つと
だれかが悲しむゲーム

 

そういえば、小学校のとき、徒競走でわざと負けたことがあるんです。今それを思い出した。背の順なので、事前に当日勝負するメンツがわかる。「この列そんなに速い子いないから、ぼくが1位だな」と思ってて、でもその中の1人の子、しげるくんとまあまあ仲良しだった。で、前日にしげるくんが、友達に話しているのを聞いてしまった。 「もし俺が1位になれたら、家族でステーキ屋にいけるんだ。絶対勝たないと!」 しげるくん、本当にいい奴で、ボール貸してくれたりした子で。

当日は、スタートきってから、葛藤です。「しげるの家族、ステーキ屋にいけなくなっちゃう」って。でもわざと手を抜いたのがばれたら先生に怒られるだろうし、それは困る。迷ったあげく顔芸をくりだし、懸命な表情だけをつくりながら手足を遅く回転させるという技でぼくは2位になって、しげるくんが1位になりました。彼は喜んで、家族の方見てガッツポーズ。「よかったね」と思った。後悔はなかった。前半のダッシュで「これ勝ったな」という感覚が自分の中にあったから、世間的には負けたという評価でも全然平気。それよりは、彼と彼の家族がステーキ屋にいけないほうがかわいそうです。

自分が勝つと、だれか1人が夢破れ悲しむというゲーム。それが小学校から始まっていたのです。

 

競争自体は悪くないけど
希望者のみにしたらどうか
ミスコンだってそうでしょう

 

もちろん、競争自体が悪いとは言いません。8割がサラリーマンになる時代。大人になって会社に入ったら、45年の競争です。競争に慣れておかないと、メンタルがもちません。将来のための訓練。免疫をつけておいたほうがいいという考えもわかります。

ただ、「降りる」という選択肢は与えたほうがいい。義務教育である公立の小中学校が、競争を強制的にやらせるというのはどうなのか。勉強でも「あなたは学年何番でした」と1位から最下位までテストで順位がつけられます。これ、冷静に考えるとすごいことです。

たとえばもし、あなたの会社で、美人ランキングが勝手に開催されたらどうですか? 美人度を1位から最下位まで決められ、「あなたは48位でした。顔は5点、スタイル7点。がんばりましょう」と。セクハラで、新聞沙汰の騒ぎ。炎上です。

これが希望者のみだったら自由です。「社内でミスコンやりますので、エントリーしたい方は」と募って、それで順位を決めるなら。競争したい人が自ら志願してくるので問題ありません。 部活も競争オーケー。サッカーもバスケも、スタメン争いはあるのが当たり前です。それを覚悟して自ら来てるわけだから、競争おおいに結構。

でも勉強は違います。希望するしないに関わらず、入学と同時に強制的に競争に巻き込まれます。勉強だって、小さいうちはほとんど生まれつきの才能や環境でしょう? これで優劣つけられては、生まれつきの身長で優劣つけられてるのとあまり変わらないと、ぼくは思うんですけど、おかしいですかね。(もちろん私立校はそれぞれの方針でいいと思います)

競争が好きな子もいるし、競争によってやる気になって伸びる子もいるので、そういう子だけで勉強の競争をやればいい。希望者を募ってやりなさいと。そうすればスポーツみたいに楽しめる。

 

降りる選択肢があるのがフェア
身体よりもの差のほうがずっと大きいのに

 

子どもにも「降りる」という選択肢を与えないと、ますます自分を大切に思えなくなってしまいます。

柔道みたいに、体重別で階級に分かれていればまだ少しはフェアですが、無差別で競わされます。頭の中身は見えないので、みんな同じだと思われがちですが、本当は身体よりも脳の差のほうが、ずっとずっと大きいでしょう。

柔道で100キロ級と40キロ級がぶつかり合うようなもので、それは戦意喪失して当然。「そんな学校には行きたくないよ」という子の方が、正常な感覚なんじゃないかと思います。ぼくが40キロ級だったら、学校行かない。絶対負けるし、怒られるし、そもそも望んで参加したわけじゃないし、さんざんです。意味が分からない。罰ゲームでしかない。

そうやって、意識のない小さな頃から競争が当たり前になっているんです。でも、大きくなったら、人生は選べる。「競争を降りる」という選択肢もあると知っておくことは大事です。

 

競争の先には
交換可能な自分しかいないのでは?

 

競争を続ける限り、替えがきく存在でありつづけることになります。社内で1337位の社員がいなくなっても、1336位の社員が穴を埋めれば問題ありません。社内は何事もなく、回っていきます。30年間競争を勝ち抜いて、ようやく15位の役員になれたとしても、より「できる人」に交換されてしまいます。

司法試験に受かって弁護士になった人がいて、きっとぼくなんか逆立ちしても受からないだろうから「すごいですね」と言いました。すると、「毎年3000人も受かるんで、たいしたことないですよ。いま弁護士が飽和状態だから、ここからが本当の競争です」と闘志をみなぎらせていました。彼なんかは競争で燃えるタイプなので頑張ると思います。

「政治家だって使い捨て」10年くらい前、小泉総理が小泉チルドレンたちに向かって言ったセリフがニュースになりました。おそらく「だから落選しないよう、常に気を抜くなよ」という励ましのメッセージかもしれないけど、これは衝撃でした。すると「そうだそうだ、政治家だって俺たちと同じ、使い捨てだ!」ワーキングプアと呼ばれる人たちが共感し、なんだか支持が上がっていった気運があって、「え…本当? みんな使い捨てなの? 」と。これって、相当病んだ社会じゃないでしょうか。

何か困ったことがあったら、支え合う。そういう信頼がベースにある社会が希望が持てる社会でしょう。国をつくる立場の人が、その信頼を壊してしまったら、社会がなりたたないのではないか。「あなたも、私も、みんな使い捨てなんだ」と首相が言ってしまった。しかも、世間もそれに反論もなく、「そうだそうだ」になってしまった。当時、「まじか…」これほどこわい社会はないなと思った。使い捨ては誰だってイヤでしょう。これを甘んじて受けてたら、ボロボロになって当たり前。

 

9割がとるであろうルートを
あえてとらない人々

 

「使い捨て」ではない、替えがきかない人間とは、どんな人か。それを見渡していたら、それは「競争に勝ち抜いた人」ではありません。「そもそも競争に乗っていない人」でした。競争に勝った人は、たとえ日本一の総理大臣でさえ、支持を失ったら替えられてしまいます。

どこかで競争を降りること。これが、替えがきかない人になる第一歩です。降りる方法のひとつは、「普通だったらとるであろうルートをとらない」ことです。普通、偏差値80ある人だったら東大を狙うのに、服がつくりたいからと服飾専門学校に行ったなら面白い。会社で出世コースにいてなんの不満もないのに、辞めちゃうというのが面白い。

やっぱりどうみても「10人いたら9人は普通こっちを選ぶよね」という順等なルートがあるものです。そこをあえて破る。「なんで! もったいない! 」とまわりが止めても振り切る。それをくり返すと、いつか「そんな人あなたしかいないよね」、という境地にいけるし、自分の人生が愛おしくなると思います。

作家の坂口恭平さんは、早稲田の建築学部を首席で卒業したのに就職しないで、築地でバイトしてたとか。本も順当に売れてきたのに、震災を機に新政府総理大臣と名乗りをあげて不穏な空気をつくったり(これがアートとして成功してるんだけど)、ギターひいて歌って踊ってCDデビューしたり、うつを公表したり。三宅洋平さんも、メジャーで音楽やってたのに、わざわざインディーズに戻ってやって、反原発がこうじて政治家に立候補し17万票も集めたり。最近も松浦弥太郎さんが「暮しの手帖」編集長からクックパッドに入社したとか。

これもビックリしましたが「普通とらないよね」「そう来たか」という選択が、彼らを唯一無二の光る存在にしています。競争から降りてる。誰かの人生ではなく、自分の人生になっているのです。彼らを、より「できる人」と交換しようとしても難しい。この多様な経験とスキルがある人は、彼しかいないわけで、替えはきかないのです。

ぼくも意識してではありませんが、22歳の初任給から50万もらってて「なんで好きなのにその上場企業辞めちゃうの」と言われたし、インディーズで自由大学を立ち上げながらアンチ「既存の教育」に見えても、法政大学とかメジャー大学の教壇に立ったりの振り幅。25歳からメジャー出版社で4冊本を出してベストセラーランキングにも顔出して、普通にメジャーでだけ出してればいいのに、インディーズでも新しい出版社づくりにトライしています。これからますます斜陽の出版業界でやっていこうというわけです。やめときなよと言う人もいます。

やってみたいからしょうがない、というのがやる理由ですが、馬鹿げた(ようにみえる)選択をすると、自分を生きてる感じがします。それが世間からみて、失敗とかしょぼいとか笑われようが関係ない。この人生を生きてきたのは紛れもなく自分だと。かけがえのない人生だったなーと、死ぬ時に桜を眺めて振り返りたい。

昨日も満開の桜をふらっと眺めてたんです。そしたら、散歩してる老夫婦が「これは良い桜ね」と話してて、「そうだな、売れば高い」とか言ってるのです。なんか、どうして桜まで競争させられてるのかと。桜たちはただ咲いてるだけなんだから、なんでも値段に換算しないでください。世知辛いものです…。

 

変化の時代だからこそ
信頼がベースになければ
続かないだろう

 

できる社員になるため。その努力は尊いですが、競争すればするほど、替えがきく存在に向かっていくのだとしたら悲しい。会社でも、「使い捨て」があたりまえになっては、そんな会社は50年100年の長続きはしないのではないかなぁ。ベンチャーは少数精鋭でないといけないので、パフォーマンスの悪い、使えない社員はすぐ斬ります、という社長がいる。こういう合理的な割り切ったスタイルがあってもいいとは思いますが、それだと会社がピンチになった時は、真っ先にみんな消えますよね。傾いたら、だれもその社長を助けないでしょう。社長も使い捨てにされ、そして誰もいなくなるのです。

だれもが、かけがえのない存在である。仲間だから見捨てない。この揺るがない大前提があるから、忠告も批判もしあえるのです。その信頼と安心がベースになかったら、「失敗、即追放」になってしまったら、それはただの恐怖政治です。そんな世界で暮らすのは気が乗らない。たとえ、使い捨てが横行する社会全体を変えることができなくても、少なくとも自分の所属する会社だけはそんなふうにしたくないなあと。これは直感で、学生のころから今までずっと思っていることです。

(約5029字)
Photo:luke chan

 

 

 


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。