【第208話】はじめる年齢について / 深井次郎エッセイ

「35歳からでは遅いですか?」

あなたも表現しはじめよう

戻るとか、抗うとか。そういう後ろに意識を向けると思い切り目の前のことに集中できません。絶対に勝てないとわかってる試合に、勝とうとしてるんです。いや、どうせ負けるし、でも負けたくないしでズルズルやっている。年をとることを否定するのは、あなたの人生そのものを否定することです。思い切って走るには、戻ろうとしないことです。

90歳の学生が学び始めた理由

 

「90近くなってよくまあ…って言われます?」
「ええ。でもね、やってもやらなくても5年後には同じだけ5歳年をとるのよ」

法政大学で授業があった時、ガヤガヤした20歳の学生たちの渦に混ざって、キャンパスに白髪のおばあさまがいました。気品のある方で、どこかの学部の教授だろうかと挨拶をすると、「あら、お恥ずかしい。わたしは生徒なんです」とおっしゃる。 大学にはいろんな人が学びにきます。社会人学生も珍しくはありません。有名映画監督も生徒として人文学部の講義に来ていました。それでも90歳は目を引きます。休み時間だったこともあり、ぼくも興味津々で「どういういきさつで大学に? 」と始まった世間話が冒頭です。

 

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「今からでは遅すぎる… 」と
 よく思うけど

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この年で始めるのは遅すぎるかなとか、逆に早すぎるかなとか。だれもが悩んだことがあるものです。気にしないぞと思いながらも、ぼくもつい何かを始める時には頭をよぎります。「年甲斐もなく… 」とか言われたら恥ずかしいなと。

初めてバスケの大会に参加しようとしたときは、「30代じゃ、オジサンすぎるかも」と思いました(実際は30代も40代もいた)。逆に大学の教壇に初めて立ったのは、26歳の時ですが、あのときは「若すぎるかも。ぼくにはまだ早い」と躊躇しました。いまですと、「35歳にもなって結婚してないのは遅い」とか祖母からのプレッシャーを受けたりしますが、いずれにしても、ぴったりベストタイミングとはなかなかいかないものです。それが人生なのでしょう。

だとしたら、世間の言う適齢期みたいなものは、無視とは言わないけど参考程度に留めておくのがよさそうです。もちろん適齢期だって参考くらいにはなります。人々が経験上、導きだした目安ですので。でも、その目安がみんなには合っても自分にベストマッチするとは限らないのが難しいところ。

先ほどの90歳の学生さんは、いままで後悔してきたそうです。

「やりたいと思った時にやらないと。実は60歳の頃から、やりたいと思っていたの。でも、60にもなって始めるなんて遅すぎるかしらとウジウジと脇に置いておいたわけ。それで30年よ。もしあのとき、すぐ始めておけば今頃ずいぶん研究も進んでただろうと悔しい思いをしているの」

「悩んでてもその間にも時間はすぎていくんですよね」

「そう、やってもやらなくても、同じだけ年をとるなら、やる人生の方がいいわよね。やらなかったとしたら、そのぶん時間は空くけど、どうせその時間を何に使ったか思い出すと、ろくなことに使ってないのよ。とってつけたような趣味と犬の散歩か、庭を掃除してるかでしょう」

ウジウジしてるとあっというまに5年くらい経ってしまいます。そして、取り組んでも5年。同じ5年なら始めにゃ損! というところでしょうか。大きなプロジェクトも5年あればちょっとした形になっている頃です。

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そもそも、なぜ年をとるのがイヤなんだろう? 
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年をとることを楽しみにしている大人がどれだけいるでしょう。かなり少ないように感じます。景気に関係なく、相変わらずアンチエイジング産業は、ますます盛況です。やれ健康だ、美容だと、だれもが当然くる老いに抗っている人たちで溢れています。 なぜ人は年をとるのをイヤがるのでしょう。なんとなくイヤと思っているけど、なぜ、と考えたことがありますか?
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〈 年をとるのをおそれる理由 〉

1. 肉体が衰えるから 
  →禿げたり、太ったり、病気になりやすくなるなど、失う苦痛 
2. 可能性が狭まるから 
  →現実を知っていくほど、昔見たような途方もない夢は見れなくなる
3. 死に近づくから 
  →1歳としをとるごとに、刻々と死に近づいている 
4. まわりの対応が変わるから  
  →若さゆえ許されていた甘えや美貌が通じなくなる

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大きく分けてこの4つでしょうか。あとは、まわりに「ああなりたい」と思える年寄りがいないことが、老いを楽しみにできない大きな理由でしょう。単に年を重ねただけ、精神は子どもと変わらず体だけ老いた人があふれています。 ただ、「年をとるのが怖い=死ぬのが怖い」かというと、これはまたちょっと違うようです。

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死ぬのがイヤなのではなく、苦しむのがイヤ

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「死ぬこと自体は怖くない。でも、苦しむのは怖い」そういう気持ちはあります。どうやら死そのものを恐れているわけではないんです。恐れているのは、痛いとか、苦しいとか、みじめとか、そういう状態です。その苦痛がなければ、この世からパッと消えても別にいいかなという人は多いのではないでしょうか。 つまり、ぽっくり逝きたい。でも、ぽっくり逝くためには健康でなければ逝けないということで、みんな運動して、食事に気をつけているのです。死ぬギリギリまで元気で動けていて、ある日眠ったまま起きない、というのが理想ですとか言って。

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何も失わずに年をとることはできない
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でもその通りにいかないのが人生です。いくら健康に気をつけてても、ぽっくり逝けるかはわかりません。せいぜい確率を上げることくらいしかできない。 アンチエイジングなどと、抗ったり戻ったりすることに意識を向けるのは疲れます。追ってくる何かから常に逃げてるのは、心理的につらい。ならば、逃げないで、向かっていこうではないか。「犬は逃げるから追ってくる」みたいなもので。こちらから向かっていけば恐怖も逃げていくのではないかと。戻るのではなくて、進んでいく方に力を入れたらどうかと、そういうわけです。

野球のイチロー選手が、盗塁の成功法を説いている動画があるんですけど、こういうことを言ってます。
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「リードを大きくとった方が有利だと一般には言われます。走る距離が短くなるので。でもぼくの場合はやりません。リードが大きければ、牽制が心配になる。当然、戻るほうにも意識を残さないといけない。それだと良いスタートダッシュが切れないんです」

進む意識と戻る意識が5:5の場合と、8:2の場合では、スタートの切り方が違いますね。5:5だと迷いが生じて、出遅れます。 人生は産み落とされてスタートしたら、前に進むしかないゲームです。戻るボタンは基本的にないというルール。生まれて身長も伸びていき、10代後半で伸びどまり、あとは体も少しずつシワシワになっていき、じいちゃんばあちゃんになって死にます。 成長はワクワクするけど、衰退となるともの悲しくなるものです。今まで当たり前にできてたことが、だんだんできなくなっていく。

 

なぜ神さまは、曲がり角をつくったのか
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お肌の曲がり角や、肉体の曲がり角はどこなのか。わからないけど、何歳かにある。さて、この謎です。わざわざ折り返し、また失っていくという段階が人生にはある。 神さまが、人生ゲームをつくったとき、そういうルール設定にしたのはなぜか。だって、生まれてからずっと右肩上がりで成長していき肉体のピークで元気にぽっくり人生を終わりにするという設定でもよかったのではないか。こっちのほうが楽しそうじゃないですか? でも神さまは、考えなしに意味のないことはやらないはず。きっと、「肉体の衰退が起きた方が人生ゲームとして面白い」との判断なのです。成長と衰退を両方経験させるほうが、きっと人間をより成熟させるのでしょう。

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生きることは苦だ
そうブッダは説いたけど

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もともとなかったのなら諦めもつきますが、当たり前にあったものを失っていくのは一番苦しいことです。動いていたものが動かなくなったり、何事もなかったところが痛くなったり。その不便さを受け入れていくには、より成熟した精神が必要です。 便利なものに慣れてしまうと、それを取りあげられると苦しい。一度でも車の便利さに慣れてしまうと、歩くのが面倒になってしまいます。タッチパネルだって、いまでこそiPadはサクサク快適に反応しますが、昔の駅の券売機とかのタッチパネルはひどいもので、押しても押してもなかなか反応しない。イライラした記憶があります。できればあの時代には戻りたくない。 でも、ぼくらの肉体はというと、年をとるごとに不便な時代に戻ってしまう。運動と食事に気をつければ、少しは老化ペースを落とすことはできますが、完全に止めることは今の科学ではできません。 では、どうするのが幸せなんだろうと考えると、さっきのイチローの盗塁みたいなスタートを切ればいいのではと閃いたんです。

 

曲がり角にきたら
肉体的快楽ではなく
精神的快楽にシフトすること
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戻るとか、抗うとか。そういう後ろに意識を向けると思い切り目の前のことに集中できません。絶対に勝てないとわかってる試合に、勝とうとしてるんです。いや、どうせ負けるし、でも負けたくないしでズルズルやっている。年をとることを否定するのは、あなたの人生そのものを否定することです。思い切って走るには、戻ろうとしないことです。 先に進む。じゃあ、先ってどこだということですが、ここで路線をシフトする必要があります。

いままでぼくたちは、体の変化ばかりに、成長の基準を置きすぎました。子どものころから身長が何cm 伸びたとか、家の柱に背丈の線をつけたりして、「去年より大きくなったなぁ」と喜ぶ。と思ったら今度は「年をとって肌にハリがなくなってきたなぁ」という具合いです。肉体の変化こそが人間の成長であると、とらえすぎている節があります。 見た目が美しくなるとか、スポーツで勝つとか、美味しいものを食べたいとか、ものにしたのされたのの恋愛とか。そういう肉体の快楽ばかりに比重を置きすぎると、曲がり角を過ぎてからは生きるのが苦でしかなくなります。

だから肉体的快楽を求めることから、精神的快楽へ移行していく。精神的快楽とは、賢くなることや、心の平安を求めること、人に与えること。つまり智恵者になることです。 たとえば、グルメな食事をすることは肉体的快楽ですが、残念ながら舌の感度には衰退があります。いずれ歯も抜けるし、昔と同じように「美味しい!」とはいきません。そこをどこかの段階で、「食べること」から、「人につくってあげること」や「つくりかたを教えること」「よりよい食べ方について考えること」にシフトすれば、それは精神的快楽。こちらは死ぬまで衰退しない快楽です。 いきいきと自然に年を重ねている人たちはこのシフトがスムーズにいっているのでしょう。

高い山に登ることは足腰が強い若い時代しかできませんが、低い山でも、もっというと縁側の盆栽でも、雑草でも楽しめる。これが精神的成熟です。同じ景色を見ても、見る人にそれを美しいと思える心がないと、美しくは見えないのです。 「心を成熟させていくようにしなさい」「本当に大事なのは中身なのですよ」と。精神の成熟がゴールだと、神さまはこの人生ゲームを設計したのではないでしょうか。精神を成熟させるために、肉体を与え、そして衰退させ、わざと厳しい状態に追い込み、鍛錬するのです。

 

年長者の価値とは
智恵者であること
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いまの時代は老人が尊敬されていません。これはなぜなのでしょう。昔は老人の数が少なかったし、長老とか、老賢人という言葉があるように、老人の地位はありました。いまはというと、長老と呼ぶにふさわしい、風格のある人は身近にいるでしょうか?「最近の若者は…」よりも、「最近の老人は…」と嘆く声も多いです。

やはり、尊敬されるには、その人に精神的な成熟が感じられないと難しいのかもしれません。智恵のない先輩を、先輩だからという理由だけで尊敬することは人間なかなかできない。「子どもがそのまま大きくなってヨボヨボになりました」自分がそんな中身のない老人になっては、目も当てられません。美容だ、健康だ、ファッションだ、レジャーだと、若いときと変わらず肉体的快楽ばかりむさぼってたら、賢くなるはずがないでしょう。

若いときと違い、年をとって得るものは経験の厚みです。経験値ができてくると、ものごとにおいて何が大事で何がそうでないかの区別がつくようになる。力の入れどころと抜きどころがわかります。昔はあれもこれも、みんなと同じものを手に入れたいと踊らされてきましたが、もう自分には必要ないやというのがわかる。選択と集中。人生を自分らしく生きるコツのようなものがわかってきます。そういう生きた智恵を下の世代に教えてほしいのです。

これからの時代ますます老人の人口比が大きくなって、大事にされなくなります。あまり暗い未来は語りたくないですが、何か大きな変革が起こらない限り、順当にいくとそうなるでしょう。そんな中で、やっぱり理想を言えば「老人が当たり前に大切にされる社会」がいいなぁと。だったら、老人自体が、賢人になるしかないわけです。まずはぼくらから曲がり角の気配を感じたら、すみやかに肉体的快楽から精神的快楽へシフトしよう。

そう、そういう意味で、本を書くことは、精神的快楽ですね。書くことは、考えることと教えることの訓練になります。そして与えること、誰かの役に立つことにもなります。肉体が衰え始めても、こういう精神的快楽があれば年を重ねるのが楽しみになります。逆にそこからが本当の人生のはじまり。 だからすべての人に「書きはじめましょう」と勧めています。幸い、書きはじめるのに遅すぎる年齢はないようです。

 

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年甲斐もなく続けたい
未来が楽しみになる “アンティークな仕事”
お金があっても働きたい?

(約5470字)


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。