【第003話】ビッグワタル -水没した街の幸福論-

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【インド旅篇 その2】

「きみの宿には、行けないよ」 バラナシ空港に降り立ち、さあタクシーで宿まで移動しようと乗り込んだ車内。運転手からこんな話が出た。 「その地域一帯は水没しているんだ。今日は他の宿にしたほうがいい」 たしかに激しい雨は降っているが、またインド流のだまし口上だろう。真に受けてはいけない。 「冗談はいいから早く行ってよ。ぼくは自分の目で見たもの以外信じないんだ」 しかし、タクシーで走ること40分、所々、川の水が増水している風景が目に飛び込んでくる。 「ほらみろ。ガンガー、ビッグワタル! ベリー、ハイ」 ガンガーとは、ガンジス川のこと。ワタルというのは、Water。こっちではワタルと発音する。最初、何のことかわからなかった。 だんだん道の水かさが増してくると、けっこう古いこのタクシー、エンジンが止まってしまった。クーラーもきかず、窓をしめきった車内は、せいろ蒸しのように暑く汗が吹き出る。ガラスも曇り、外の状況がわからず、不安が募る。濡れるの覚悟で、車外に出て、近くの通行人たち数人にチップを払い、車を押してもらう。なんとかエンジンをかけたが、少し走りまた止まってしまう。タクシーの運転手は信用ならないので、ほかの町の人にも確認する。 「ガンガー、ビッグワタル? 最近ずっとこの状態なの?」 「ああ、こんなにひどい状態は十年に一度あるかないかだよ」  

 

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  車もようやく走り出し、少しずつ目的の地域に近づく。明らかに普通でない、水没した町がそこにはあった。街全体が、床上浸水。どうやらガンジス川の洪水は本当みたいだ。現地の人も驚くレベルの自然災害にインド初心者のド素人が自ら飛び込んでいってしまった形です。タクシーも「ここまでしか入れないよ」ということで、そこから先は歩くしかなかった。20kgのキャリーケースと10kgのバックパックを持ち上げて水の中を30分ほど。荷物が重い上に、気候も蒸し暑く、体力がつきてくる。もし荷物を水にジャプンと落としたら、カメラやPCなど電化製品がアウトです。日本と違い、道路は舗装されていないので、足場はゴロゴロしたものがいっぱいあって、転びそうになる。ガイドがいるわけでもなく、土地勘がないので道がわからない。それに水が汚い。ガンジス川には死体からゴミから糞まで全てが流されている上、生活排水も崩壊しドロドロがあふれてしまって、臭くて汚い。普通の雨水ならまだしも、臭いということ、汚いということは、精神的にかなり追い込まれる。ちなみにガンジス川はいろんな菌がウヨウヨしていて外国人は膝上まで浸かると熱を出すことが多く、一般的な旅行会社のガイダンスでは外国人の沐浴は止められているようです。 この町の人たちは、床上浸水しながらも、日常をキープしようとしているのか、不思議と悲壮感はなかった。 「これはガンガーの水だからね。常に沐浴している状態で幸せだよ」 自分の家が床上浸水しているのに、そんなのんきな話をしていたりする。 「ガンガー、ビッグワタル!」声をかけ合う。通常時ではただすれ違うだけで言葉を交わすこともない。そんな人とも、非常時には一種の連帯感がうまれるものだ。こんな災害時に外国人の旅人はめずらしいようで、2階の窓からぼくに声をかけてくる人たちも多い 「Are you HAPPY?」 どう見たって極限の状態なのに、ぼくは大声で答えていた。 「Yeah-,HAPPY!」 HAPPY?と聞かれて、NOとはいえない。ただの条件反射の返答、それもある。でも、それだけではない。その時たしかに、幸せに近い精神状態にあった。これは一体どういうことだろうと考えてみると、瞑想状態にあったのだと思う。仏陀がやっていたといわれている瞑想法はヴィパッサナー瞑想で、「今という瞬間に完全に注意を集中する」というのがそのやりかた。わかりやすく言うと、「右足をゆっくり上げた、下げた、地面についた。息をすった、はいた」そのアクションをスローで行い、そこに全部の注意を傾ける。 「いま、ここ」本当はそれ以外のことはすべて雑念だ。過ぎてしまった過去の後悔、まだ来てもいない未来の心配。ぼくらの頭の中の9割以上は、こうした余計な雑念で埋められてしまっている。過去はだれにも変えられないし、未来はだれにもわからない。自分でコントロールできるのは「いまこの瞬間」だけなのに。コントロールできないものを無理矢理コントロールしようとすることが、苦しみをつくりだす。 そのときのぼくは精神的に体力的に追い込まれ、余裕をなくすことで、完全に「いま」だけに集中する、瞑想状態になっていた。転ばないように、流されないように、足元に集中していた。経済的に余裕がある国ほど自殺者が増えるというのは、未来や過去の余計な雑念が増えるからかもしれません。   「よかった。あなたがHappyなら、ぼくも嬉しいよ」 声をかけてくる人たちは、こんなことを言ってくれる。水没していない地域を旅していたとき、インド人はあの手この手で騙そうとしてきた。実際にぼくは騙され金銭的に損をしたし、予定もくるってしまった。「彼らの頭の中は、金儲けしかないんだろうか、なんと悲しい人たちだ…」もしそんな人ばかりだとしたら、インドを嫌いになってしまいそうだった。けれど、「ガンガー、ビッグワタル!」この言葉をきっかけに、ぼくはインドと近くなれた気がする。狡猾な商売人や観光業以外の人々、つまり普通に日常を生きる人々と触れ合うきっかけが生まれた。水没させないよう必死な形相で重い荷物を運ぶぼくの姿をみて、彼らは励ましてくれたし、時にハッとするような言葉を投げてきた。 「気持ちがHAPPYなら、他に何か必要なものなんてあるかい?」 「リメンバー、バラナシ。(水没の)おかげできみはバラナシを忘れないでいてくれる。いい体験をしてるよね」 力つきる、その寸前に宿にたどり着いた。ガンジス川のほとりだが、部屋は4階なので水没は大丈夫そうだ。こんな状況だからか、ほかの宿泊客はいない。こんなに増水していても、川の流れる音がしない。すべてを吸収してしまうような大河。不気味な静けさを感じながら、お湯のでない、勢いのないシャワーを浴び、眠りについた。

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[写真上] ガンジス川の沐浴場(ガート)は、普段は、階段状になっているのだが、いまはその階段は一段も見えない。写真のようにそれが民家の一階まで水没してる。

[写真中] 深井の額の朱色の点は、お寺で安全祈願をしたときにつけてもらった。 Photo by NOZOMI KUMAGAI

[写真下] こんな水でも自転車に3人乗りで笑顔をみせる少年たち。 Photo by NOZOMI KUMAGAI      


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。