【第196話】説明不要な世界に戻りたい? / 深井次郎エッセイ

「ええ、作家です。運転しながら考えてます」

タクシーの運転手くらいしかありませんよ」
言い放つ転職エージェントを前に固まった話

「タクシーの運転手くらいしかありませんよ」
転職エージェントを前に固まった話

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みどり荘でひと仕事を終えたあと、ラウンジでひと息入れてました。ヤマセさん(仮名)がふらっといたので、最近どうですかと話しました。 彼は30代でNTTを辞めて半年、いまは次に何をするかいろいろ実験中という身。ギャップイヤーですね。その日、ヤマセさんは、みどり荘の本棚の本の写真をアーカイブするため、一冊一冊丁寧なライティングでブツ撮りをしていました。

「独立してやっていくタイプでもないから、どこかの組織には入ると思うんですけど、出版社はなかなか募集してなくてね」

前職の通信業界ではなく、今後は出版メディア編集の分野でやっていきたいとのこと。しかし、未経験者の転職は難しいというのです。

「まあ、のんびりしてもいいんじゃないですかね。10年以上働いてきたんだし、ちょっと自由な時間をもってもいいんじゃないですか」

ぼくは答えましたが、何もしない期間をとることは人生の転機においては大切です。なにもしない、ニュートラルな時間をとることで、本当にやりたいことや必要なものが見えてくるから。忙しくしていると、そのまま過去の延長で流されてしまいます。 とはいっても、人間どこにも属していないというのは心細くなるもの。ヤマセさんも大組織を離れて半年ですから、けっこう心細くなってきたようです。

「いま何をやってるんですか」という質問がいちばん困りますよね。半年前は、「NTTに勤めています」で、あとはもう説明不要。これがいかに楽だったかということを感じると言います。いまは「何やってるかというと、なんでしょうね、えーっと、小さなプロジェクトをいくつかやってまして」という返答になる。これって、すごく怪しそうな目で見られるんですね。ぼくもよく経験してきました。えーっと何から話そうかな、この人どのくらいぼくに興味あるんだろう?  詳しく話した方がいいのかな、それともただの社交辞令で聞いただけかな。とか考えてしまって、「えっとですね、いろいろ書いたりしてます」みたいな話になって、作家志望の青年に思われたりします。ひとことでうまく説明できない仕事って、メンタル強い人じゃないと、肩身が狭い思いをするんです。

「俺、これでいいんだろうか」相手の怪訝そうな顔を見るたびに、だんだん自信もなくなって、小さくなってしまって、もとの「説明が簡単な世界」に戻ってしまう人も多いです。しかしそこで待っているのは、また同じ現実。もんもんとする生活はつづくわけです。

何も肩書きがない自分にどれだけ耐えられるか。たまにカリスマミュージシャンが「職業は?」と聞かれて、「うーん、職業は、自分、浜崎あゆみかな」と自分のフルネームを答えます。そのくらいに堂々といられるか。その肝が座った精神でいられるかということが大きい。 ヤマセさんは「あと5年早く辞めていたらよかったな」と言いました。できるだけ若い方が世間からの風当たりはゆるい。ぼくは「でも逆に5年後じゃなくてよかったですね」と答えました。

この間、ヤマダさんは初めてリクルート社の転職エージェントと会ったそうです。どうやら条件の良い「非公開求人」があるからというのです。

「ヤマセさんが同業に転職するなら、条件の良い非公開求人があります」
「いや、同業にはもういきたくないんです」

そう答えると、相手の顔は曇りました。20代後半のバリバリやり手風の女性エージェントさんは、ふう、と深いため息をつき、そこから先はダメ人間を見るような目つきになったそうです。ピシッとしたスーツに身を包んだエージェント氏は、Tシャツ短パン姿のヤマセさんに「はあ、それじゃあ、タクシーの運転手くらいしかありませんね」そう言い放ったのです。

「もういい年なんですから、現実をみてください。いくらNTTで10年以上のキャリアがあったって、異業種ではなんのアドバンテージにもなりません。新卒と同じです。いや新卒のほうがましですね。わざわざ年をとった新人をとろうという会社はありません」

なにこの、今日初めて会ったばかりの人に説教されてしまっている状況は。思わず笑えてきてしまったそうです。エージェントと言っても営業マンですから、転職を成立させないとマージンは入りません。あの手この手で転職をさせたいのでしょう。

「おれも前はそっち側にいたんだよなぁ」ヤマセさんは、久しぶりに違う世界に生きている人の話を聞いて思ったそうです。そっち側。それは「みんなと一緒の選択をしなさい。そして、その枠から出たら終わりですよ」の窮屈な世界。本当は枠なんてどこにもないんだけど、それがあると思い込んでいる。世間体なんかよりも大事なことがあって、もしやりたいことをやらなかったら、なんのために生きてるんだろう。どちらにしても、タクシー運転手を見下すような価値観ではない、もっと広い視点と経験をもった転職エージェントって必要じゃないでしょうか。すばらしい運転手さんはたくさんいて、もしタクシーがなくなったらぼくらは困りますよ。

ヤマセさんは、元いたそっち側の世界の人と接したことで気合いが入ったようです。 「引き続き、目の前のことに打ち込んでみますよ」 彼は仕事に戻り、カメラのシャッターをきり始めました。そう、自分よりも自分のことを考えてくれる人などまず、いないのです。向こう側の世界からはこちらのことが見えません。臆せず進もう。そうやってみんな、今日を一生懸命生きているのだ。

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(約2067字)

Photo:fred pasquini

 


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。