【第190話】試合に出られるチームにいこう / 深井次郎エッセイ

サッカーができる喜び

プレイできる喜び

自分はサッカーがしたいのか
ビジネスがしたいのか
問いながら生きる

 

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ブランドにしがみつく、という言葉を最近よく耳にします。ぼくなんかは有名な組織に所属したこともなく。一度もブランドというものをまとったことすらないので、しがみつくこともできません。うらやましい限りです。有名企業を本当は辞めたいのに、辞められないという人も多いです。名刺を出した時に、「良い会社にお勤めで」と言われる快感を捨てられないと言うのです。相手の態度が変わる瞬間とか、水戸黄門の印籠みたいな効果を体感してしまうと、手放せないのもわかります。

たとえば、自分がスポーツ選手だったらどうかなぁとたまに考えます。サッカーの香川選手が名門クラブ、マンチェスター・ユナイテッドにいますが、もう3年目になるのでしょうか。なかなかレギュラーになることができないでいるようです。ずっと出番がもらえないのなら、さすがにもう他のチームに行くのかな、と思ったら、今日、残留を決めたというニュースがありました。どういう考えで決断したのかは知る由もありません。でも、サッカーがやりたいだろうに試合に出れないのではつまらないだろうな、と思います。

「試合に出ることより、ビッグクラブのブランドをとったのではないか」そう香川選手の心情を予想する向きもあるようです。プロの世界ですし、まわりのブレーンやスタッフ、スポンサーなど大きなものを抱えてしまうと、単純に個人の好き嫌いだけでは動けなくなってしまうこともあるでしょう。自分がこの立場だったら。いつも、すぐ置き換えて考えてしまうのですが、ぼくが彼だったら大好きなサッカーができないのは辛いです。チームの一員とはいえ、戦力として貢献できず、ベンチにいるだけ。観客にもプレーを見てもらうことができません。

ぼくはサッカーがしたいのであって、ビジネスがしたいのではありません。いくら高い年棒がもらえても、試合に出てチームに貢献できないのでは、意味がない。なによりも、楽しくない。サッカーがしたいのだから、どのチームでも試合に出られるチームに行きます。いくら名門ビッグクラブに所属していたって、試合に出られないと自分を表現することすらできません。飼い殺し状態です。たとえ下位リーグでも、試合に出てさえいれば、観客は少ないですが、見てもらうことはできます。良い仕事をすれば、どこかの監督が目をつけて声をかけて引き上げてくれるかもしれません。何をおいても、まず試合に出ないと始まらないのです。

ふと、サッカーの世界から、自分の仕事に戻って考えてみます。あなたにとっての試合とは何でしょうか。レギュラーとは何でしょうか。あなたは今、試合に出れていますか。レギュラーですか。ぼくにとっての試合とは、深井次郎として書いたものを読んでもらうこと。つくったコンテンツ(学校やワークショップも)を観てもらうこと、トークを聞いてもらうことです。つくったものを発表できてる時、「試合に出られている」と感じます。

反対にぼくという個人が組織の中に組み込まれてしまって、匿名記事しか書けない。または書いても組織の都合で制約がかかって突き返される。そんな状況では、試合に出る喜びを感じられないだろうなと思います。たとえばもしぼくが今、歴史のある大きな新聞社の記者としてモノを書けといわれても(そんな仕事は来ないと思いますが)、試合に出てる感覚は味わえないでしょう。署名記事だったとしても、大新聞では記者個人の意見を自由に書くことは許されないからです。それはぼくにとって、試合に出る喜びではありません。伝統とブランドのある名門チームの所属選手ではあるが、ベンチ。そういう感覚です。

言いたいことを言えないと楽しくない。試合に出れないと楽しくない。試合に出られないのであれば、違うチームに行くしかありません。で、もしそんな理想のチームがどこにもなければ、自分で草サッカーのチームでもいいからつくるしかない。だからぼくは独立して、自分に合う環境を自分でつくっているのです。サッカーがしたいのか、ビジネスがしたいのか。やっぱりずっと、サッカーをしていたいのです。

(約1644字)

Photo:Nathan Congleton


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。