【第169話】水たまりに糸をたらした少年 / 深井次郎エッセイ

「ぼうや、そこは牧場だよ」

「ぼうや、その辺は牧場だよ」

頭が弱いのではない
非合理を楽しめる
子どもの心を持っているのだ



「どうですか、釣れますか?」 釣りにいくと、先にいる釣り人に挨拶がてら聞くものでした。小学生の頃、釣りをよくやっていたのです。ちょっとひとり考えごとをしたいときとか、暇でしょうがないときに、よく自転車で川に糸をたらしに行きました。そしてひとりで寂しくなったら、適当に川べりを歩いて釣り人に声をかけるのです。
「どうですか、釣れますか?」
「いや、全然あたらないね」
「そうですか、日も落ちてきて、これからじゃないですか」
「そうね、あと1時間ねばってみようかな」
魚が釣れるかどうかよりも、励まし合ったり、こういう心の交流のほうが面白かったんです。

ある日のこと、川まで遠いから面倒だなと思って、釣りを近所ですまそうとしたことがありました。その日は大雨が降った翌日。向かった先は、近所のスーパーの駐車場で、そこには大きな水たまりができていました。「もう、水たまりでいいや」と思ったのです。一番大きな水たまりに陣取り、釣り用のケースに座り、竿をのばし、糸を垂らす。準備オーケー。タバコなんかもふかしたいところですが、子どもなのでココアシガレット(タバコに似た駄菓子、なつかしいね。今もあるのかな)を口の端にくわえます。そして煙が目にしみるっぽい表情をしてみたりする。

すると、最初の10分で、人が寄ってきます。「へ、こんなところで釣り、 釣れるの、 え?」 この状況を目の当たりにして混乱した夫婦が小声で話しています。しかし、多くの人は直接声をかけてはきません。遠巻きに不思議そうに見ている。雨でできた水たまりなんかで、魚が釣れるのか、いや釣れるわけないだろう。じゃあ、なんでこの子は本気モードで座り続けているんだ。時おり、餌をつけ換えたりもしているようだ。そこで、みんな結論づけるわけです。ああ、たぶんこの子は、知恵おくれの子なんだ。そうかそうか、とギャラリーたちはようやく勝手に納得しだしたようで、混乱から、弱者を見守るなごやかな雰囲気になりました。

30分も糸を垂らしていると、背後にギャラリーができる。出たり入ったりはありますが、15人くらいになりました。すると、ようやく1人のおじさんが、声をかけてきました。少しバカにしたような感じで、「おー、ぼうず、釣れるかい?」ギャラリーに緊張が走るのを、背中で感じます。ついに言ったー、みたいな空気です。さあ、どう出るか、ぼうず。

ぼくはゆっくりと振り向き、ギャラリーを見渡し、そしておじさんに向かって冷静な声で言いました。
「釣れるわけないでしょう、おじさん、ここは水たまりですよ」
また向き直し、新しいココアシガレットをくわえたのです。ギャラリーは静まり、そして沸きました。「こりゃ、釣られたな」おじさん、おばさんたちは「やれやれ」と笑いながら帰っていきました。遠巻きに見てた子どもも駆け寄ってきて、「すごい、大漁だったね、キミどこ小?」彼らとはその後、釣り仲間になりました。

こういうことって、大人になってもよくあります。人が静かに釣り糸を垂れていると、そんなところで釣れるわけないとか、そんなビジネスは儲かるわけがないとか。そんな夢みたいなことを実現できるわけがないとか。いちいちバカにしたり、批判してくる人がいます。

でも、実はやってるほうは、そこで魚が釣れないことくらいわかってるのです。わかってやってる。じゃあ、なんで魚が釣れないにもかかわらず糸をたらし続けているのか。それが無粋な大人たちには理解できないのです。魚という利益のためにやってるわけじゃない。「釣れないのをわかってて、ただ糸を垂れる」そんな粋な世界もあるのです。糸を垂れることそれ自体や、そこで起きる心の交流が面白い。非合理なことを楽しいと感じる「子どもの心」が、本当はだれにだってあるのです。

(約1524字)

Photo: sandwich


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。