【第151話】風景写真に気持ちが写るか / 深井次郎エッセイ

どんな気持ちで撮ったのか

写真家の気持ちが写るのか。 観るものの気持ちが写るのか。

感覚や目に見えないものまで
議論できる仕事につきたいと思った

 

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風景写真に気持ちが写るか。たとえば、ただの空をパチリと撮ったとして、その写真から撮影者の気持ちが伝わるかということです。「写真に撮影者のこころが写り込むのだ」そう語る写真家は、多くいます。悲しい気持ちで撮った写真は、なんとなくもの悲しい。人物を撮るポートレイトならば、それは顕著です。カメラマンが笑顔なら、鏡のように反射してモデルも笑顔になるからです。けれど、風景写真では、カメラマンの気持ちなど写りようがないのではないか。カメラのシャッターを押すだけの話。

機械が撮っているのだから、人の気持ちなど写りようがない。そこに目の前の風景以外の何かが写るわけないというホンマタカシさんのような写真家もいます。目の前の山を撮るのに、構図を決めて三脚立ててヨシというところで、猫にシャッターを押させても、自動シャッターでも、自分が念を込めて撮っても、写真としては何も変わらない。そういう、「気持ちが写るか」議論があります。ぼくはまだそこまで写真のことがわかりません。でも、そういう議論のできる仕事っていいなと思います。目に見えない何かまで考えてしまうような仕事です。正解が1つでない仕事。

ある写真を撮ってるある青年は、生活費を稼ぐために工場でアルバイトをしています。そのベルトコンベアーで、箱に瓶をつめている仕事では、そんな議論はないそうです。「箱に気持ちは乗るんですかね」上司に聞いたら「バカなこと言ってないで早くやれ。急げ」と言われます。同僚に聞いても、「はあ、考えたことないな」とみんな言う。すごく残念です、と彼は言っていましたが、ぼくはなんだかわかる気がしました。ただ形が完成すればいいのではなく、そこを超えるところまで考えたい。終わりのない探求ができる道を歩みたいなと思います。写真はわかりませんが、絵やエッセイだったら、かき手の感情がのってしまいます。別れの悲しい気持ちで書けば、それがのります。

映画の北野武監督。きっと彼は、「気持ちは映らない派」ではないでしょうか。「中身よりも外身をちゃんとしろ」と俳優に指示すると何かで読んだことがあります。役の気持ちになりきって立っても、そんなものはカメラには写らない。「腹減ったなあ」とか別のこと考えてても、その絵にふさわしい立ち姿をしていれば良い。何を考えてるかなんて映らないから、俳優はとにかくどうカメラに映ってるかに気を配れということです。俳優でさえ気持ちが映らないのですから、撮影者ではなおさらです。

写真家の篠山紀信さんは、「気持ちも写る派」ではないでしょうか。良い写真を撮るには、「被写体へのリスペクトが大事」と語っています。たとえば、富士山を撮るのでも、彼は褒めるのだそうです。「いよっ、日本一! 今日もいいね」と褒めてから撮る。すると出来上がりが違うのだそうです。同じ構図でも、「つまらない山だな」と思って撮るのと写真もつまらなくなる。

そんなことあるかいな、と思いますが、こういう目に見えない「感覚の話」は好きです。ぼくは高校時代に受験のための勉強にうんざりして、「将来は勉強っぽくない仕事につきたい」と思っていました。あのときの漠然とした「勉強っぽくないもの」ってなんだったのかなと思うと、今日の話みたいな感覚的な議論ができるかってことかもしれないなと思うのです。

国語算数理科社会を最短で効率よく暗記する。先生に問題を与えられて、その1つの正解を当てにいく。そして答えが出るまでの数日間は、正解だったかビクビクすること。そんな「勉強っぽいもの」にうんざりしていました。だから美術、体育、音楽の時間が楽しみで仕方ありませんでした。答えが1つではないもの。自分の意見を持っていいもの。問い自体を自分で決められるもの。そしてお金にならなそうな学びが一番おもしろかったものです。

なんかいいよねという感覚は数値化できません。答えはひとつじゃありません。そういう感覚が必要とされる仕事が世の中にあってよかったと思います。そういう話ができる仲間がいてよかったと思います。

(約1642字)

Photo: Martina (Tina)


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。