【第111話】学校はだれのもの? / 深井次郎エッセイ

「学校は生徒のものじゃないんですかね」

「学校は生徒のものじゃないの?」


長い時間を過ごす場合
居心地のいい人を選ぶんですね

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昨日のつづきです)会社と学校の違いは、どこにあるのでしょうか。会社だったら、意欲のある人を落とすことも理解できますが、大学のゼミだったら疑問です。なんかおかしいな。それでいいのかなぁという気持ちがありました。会社はだれのものか。学校はだれのものか。そこを考えるとわかるかもしれません。これも人それぞれ意見があります。あなたは会社はだれのものだと思いますか。法的には会社は株主、オーナーのものです。ですが、社員のものとも言えるし、お客さんのものとも、社会のものとも言える。そこは議論の余地がありますが、一般的にはオーナーのものということになっています。私立の学校法人の場合はいろんなケースがあって、寄付で成り立っている公共に近いものから、株式会社がつくった大学までありますから、学校は会社より「だれのものか」がわかりにくいです。その点、ぼくはてっきり「学校は生徒のもの」だと思いこんでいました。だから生徒が「もっと学びたい」と言ってるのに、それに対応しない先生に違和感を感じてしまったのでした。

そもそもの大学の起源は、中世イタリアのボローニャにて。生徒から始まりました。この話は、自由大学のことを話すときによくいうので詳細は省きますが、生徒が先生を雇って教壇に立ってもらったことから始まります。生徒がオーナーだったのです。生徒が先生を選んで、「これについて教えて欲しい」と頼みました。その要望に添えないと、もう頼まれません。先生はクビです。その考えがぼくの中には大きくあるので、意欲の高い人を落とすゼミの教授には、「そんなこと許されるの!」とビックリしたわけです。

社会に出ると、人と人との相性で評価が決まります。勉強のテストと違って、高ければ高いほどいいというわけではありません。相性というあいまいで答えがないもので測られる。評価基準もわかりません。カッコいいし俳優も音楽も何でもできて完璧な、たとえば福山雅治のような人でも、完璧すぎるがゆえに「緊張しちゃうから嫌だ」とつきあいを断る女性はいるでしょう。

お笑いのインパルスのコントで、転職面接のネタがあります。応募者は、過去に宇宙飛行士や外科医やシークレットサービスを経験してきたエリートです。しかし対する町工場の社長は、「きみはエリートすぎる」と恐れをなして不採用にする話です。  長い時間をともに過ごす仕事や家庭の日常生活は、自分の居心地のいい人と、いっしょにやっていきたいなぁというのは確かにありますね。


コント『居たい場所、居るべき場所』(約17分)

ぼくが法政大学で教えてきた学生たちも、いま4年生のメンバーはちょうど就職活動のピークです。「落ちても自己否定する必要はぜんぜんないからね」ということだけは、ことあるごとに言っています。能力が低いからではなく、「高すぎる」という理由で落とされることもあるのですから。すべての会社に受かる人はいません。絶対にどこかで落とされます。落とされる免疫がない人は、ここで立ち直れないほどふさぎ込んでしまうことがあります。でも、相性なので、合わなくてもしかたがないのです。「オーケー、はい次っ!」という軽いノリで切り替える。振り向かずに歩いていって欲しいです。(明日に続きます)

(約1213字)

Photo: Pierre Metivier


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。