【第251話】持つ者、持たざる者 / 深井次郎エッセイ

 

 

ウソで成功するのもつらいよ

 

自分を飾るためにウソの経歴を書く。そんな経営コンサルタント氏がメディアで報道されたので、この機会に少し経歴について考えてみました。

バレてしまったのは、本人にとって最悪な出来事だったかもしれませんが、よかった面もある気がします。もし、このままウソの経歴のまま活動をつづけられていたとして。いくら賞賛されても、どこかで後ろめたさや不安がつきまといます。

みんなが賞賛してくれているのは、本当の俺ではない。もしいつか本当のことがバレてしまったら、きっとみんな離れていくだろう。この状況は、こころが休まりませんよ。いくら成功して贅沢な生活ができたって、幸せではない。

成功すればするほどつらくなる。いくら成功しても自分に自信も持てないし、堂々と誇れない。ドーピングで勝った選手の顔にどこか影があるのは、そういうところです。「強いねー」と賞賛されても、「ありがとう(でも、ドーピングなんだよね…)」。

今回ウソがばれたことで、失った仕事もたくさんあるけど、きっとスッキリして救われた気持ちもあるのではないでしょうか。しっかり謝って、これで離れていかなかった人たちといっしょに再起していく。ウソのまま突き進むよりも、むしろ幸せな道なのではと想像します。

 

そういえば、仲間の学歴を知らない

 

ぼくはといえば、キラキラした学歴も職歴もないです。また学歴競争とはあまり関係ない世界を(半分偶然、半分意図的に)歩んできたので、学歴がなくてもあまり不便を感じたことはありません。

でも、「ないよりは、そりゃあるにこしたことはないでしょう」と思います。進路の選択肢が増えます。選択肢があるというのは豊かさです。健康やお金も同じですが、あるにこしたことはない。だからといって、なかったらないでやっていく方法も必ずあるものです。

ぼく自身が学歴を「持たざる立場」でやってきたからか、取引相手や、社員採用、仲間をつくるときにも、相手の学歴を気にしたことがありません。

小さな起業とクリエイティブの分野で生きてきて、社長やクリエイターの魅力は学歴と関係ないと実感しているからです。この人は光るものをもっている!なんか好きだ、という野生の勘を信じます。

受験戦争という言葉に象徴されるように学歴を得るために身を削って戦ったことのある人ほど、こだわりはあるでしょう。でも10代早々にそのゲームを降りて、ちがう競技をしていた自分には、学歴を水戸黄門の印籠をありがたがるような感覚はわかりません。

柔道をやったことがなかったら、黒帯と聞いてもどのくらいすごいのかピンと来ませんよね。だから高学歴と言っても、すぐに尊敬にはならない。「なんかハーバードはすごいって聞くから、すごいんだろうね」くらい。いかんせん知らないのだから、しかたない。きっと実際に試合をして、黒帯の人に一瞬で倒される経験をすれば、「やっぱ、すげーんだ!」黒帯おそるべし! と体感できるでしょうが。

学歴ってなんだろうと、考える機会はありました。上場企業の新卒採用責任者、自分の会社の採用、自由大学、オーディナリーなどでやってきましたが、でも相手の学歴を気にしたことがないです。この人と一緒に働きたいと思うのは、「つくるモノがすごいか」、「人として尊敬できるところがあるか」それだけです。

そういえば、現に、まわりの仲間の学歴、どこの大学とか知らない人のほうが多いくらいです。5年もつきあっていても、そういえば、「どこの大学行ってたんですか?」「いや、大学行ってないんですよ、高卒です」とか「東大です」「へー、東大、頭いいんだね」という感じで、知らない。そんな感覚です。

たいてい先に人間同士としてつながって、その後にもし話題になったら学歴を知ることもあるという感じだから、別に学歴がどうであろうと関係ありません。学歴が高くても低くても、その人の見方が変わることもない。岩手出身とか熊本出身とかとあまり変わらない。血液型も気にしないのといっしょ。もちろん本人の努力はあるけど、ほとんど生まれたDNAと環境で決まっちゃうでしょ。そういうものはあまり面白くない。それに過去より今なにができるか、かな。

ぼくたちの出会いかたは、大企業の面接みたいに「まず履歴書送って」という出会いかたはしてません。気づいたらそばにいて、話が合うから自然とつきあいが始まってて、それぞれ完璧じゃないからぶつかることもあって、それを積み重ねて知らぬ間にかけがえのない存在になっていて、という流れ。

極端な話、もしいま「実は過去に前科があるんです」と告白されても、そりゃ大変なことしたね、なんでそんなことしたの、くらいは聞くかもしれませんが、それで関係が変わることはありません。それまでの時間で信用と絆ができてるからです。

 

仕事に学歴は必要あるのか

 

履歴書やプロフィールで高学歴の人を見たときにもつ先入観は、「記憶力があり、勤勉な、高い学費を払えるくらいの家庭環境で育てられた人なんだろう」というくらいです。それ以上のことは、実際会って話して、その人のつくるものを見ないとわかりません。

でも、人気企業に就職するには、最低限の学歴が必要な場合もあります。大勢の人が目指すような人気のある道で競争していきたい人には、最低限のたしなみという役割なのでしょうか。ドレスコードみたいなもの。学歴がないと不利になるのはしかたありません。

人気ある道は応募が多すぎます。書類選考の段階でなんらかの足切りをしないと、まわりません。採用フローを効率化するために、応募者全員を面接している暇はないのです。なんらかの足切り、ふるいにかけるときに「学歴フィルター」を使うことはあるでしょう。

学歴があったほうがいいのは、人と同じ道を行く人にとってです。学校の延長でまっすぐ人生を歩む人は、多くの人と同じ道を歩もうとします。「みんなが行くから行く」という発想です。大学に「みんなが行くから行く」という人は、働く場所も「みんなが行くところに行きたい」となります。そして「みんなが東京に住むから」住んで、「みんなが結婚するから」して、「みんながマイホームを買うから」買います。

「みんなと同じ」を選択したい人にとっては、競争は避けられない。この場合に限って、(これだけ価値観が多様になった時代でも)学歴はないよりあったほうが有利なのはたしかじゃないかなと思います。

 

コンプレックスが成長をはばむ

 

学歴で足切りされた経験があると、コンプレックスを持ってしまう人も多い。それがエスカレートして、なにかうまく行かないことがあると、ぜんぶ学歴のせいにしてしまう。そう勘違いしてしまう人もいるから、この問題はやっかいです。学歴がないから彼女にふられた、と言い出す始末。「たぶん、それだけが問題じゃないでしょう」ということも、分からなくなってしまいます。

いじわるな性格が原因だったかもしれないのに、なにもかもがコンプレックスのせい。ふられたのは学歴がないからだ、ですませてしまう。「ふられたのは背が低いからだ」みたいなもので、もう変えられないものはしかたない。いちいちそのせいにしてたら、反省がありません。

コンプレックスを持たない人が恵まれているのは、なにも言い訳するものがないこと。オーディションに落ちても「単純に自分のレベルがたりなかった、精進せねば」となる。

その不利は勘違いかもしれないのです。被害妄想。不利と思い込んでるだけというケースはたくさんあります。たとえば、「わたしは美大にいってないからクリエイター、アーティストになれない」とか。

勘違いです。電通や博報堂のクリエイティブ職のような人気企業を選ぶならまだしも、東京芸大、ムサビ、多摩美などの美大を出てないアーティスト、クリエイターは6割以上いるというデータをみたことがあります。肌感覚では、たぶんもっとずっと多い、8割超えるのではと思います。美大卒業はクリエイター必須の資格でもなんでもありません。美大信仰、美大じゃないと無理というのは妄想です。

 

学歴が関係ない道なんて
いくらでもあるのに

 

「持つ者」と「持たざる者」、ぞれぞれのゲームで、人はどちらかの立場になります。

バスケットボールの世界では、身長がないとNBAでは活躍できないし、競馬のJRA騎手になるには、視力が裸眼で0.8以上ないとなれません。国会議員になるにはまず選挙に立候補する300万円の供託金が必要です。その金額を準備できない人は、現状ルールの中では政治家になれない。

どの職業でも、最低限必要なものがあります。「人間みな平等、差別はいけない、みんなにチャンスを」という道徳の授業のようにはいきません。不利なのがいやなら、始めからよく調べて、そのゲームを選ばなければいいのです。やることは他にいくらでもあるのですから。勝ちにこだわりたいのなら自分が少しでも有利になる、最低でも不利にならない道を探せば、きっとあるはずです。

A: 学歴が最低限必要な道 
B: 学歴が関係ない道

この2つの道があるので、ぼくを含め学歴を持たざる者は後者を選べばいいだけです。学歴がないのを不利だと文句をいいながら、Aの道を歩き続けるのはなぜですか? やっぱりその道が好きだからですよね。ぼくも背は170しかなくてバスケをやるには小さくて不利なのです。でもしょうがない。好きだから趣味ですが続けています。大きい人を「うらやましいなー」と見上げながら、自分は不利なゲームと承知しながらもそれでも「バスケより楽しいスポーツはない」と思ってるから続けています。

不利なゲームだというのも受け入れて、それでもその世界にいるのが好きだからいるのです。いれるだけで幸せだ。背は小さいけど工夫次第で、たまにしかないけど大きな選手に勝てることもあって、それはすごく面白いです。そういうところに喜びを感じていくのが精神衛生上よいと思います。いつまでも、「不利だー、ずるいー」なんて怒り続けてもゲームのルールは変わらないのですから。

ゲームを変えるのが無理なら、自分を変えるという手もあります。この年から身長を伸ばすことは難しいですが、どうしても学歴が必要なら、40代になってからでも社会人入学したり、通信制でもやったらいいです。それで卒業資格とれば、ハーバード大卒もウソじゃないです(ハーバード大が通信やってるかは知りません)。堂々と経歴にも書ける。足りないものを後から埋め合わせた人はいくらでもいます。

 

 

なぜいまだに学歴信仰がはびこるのか

 

しかし、これだけ価値観が多様になった時代に、なぜいまだに学歴を大事にする人が多いのでしょうか。

ひとつは競技人口の多さ。いちおう全員が参加したことのあるゲームだから、というのが大きい気がします。 これが、「おれベンチプレス100キロあげるんだよ」と自慢されても、そもそも「それ何?」って人がほとんどだし、経験したことのある人がいないから、比較もできないしすごさが伝わらない。競技人口の多さは重要です。年収、という軸も比較しやすいですね。ビジネスマンの競技人口は多いですから。

2つ目は、数値化できて明確に序列をつけられること。みんな義務教育からひとりひとりに偏差値をつけられます。全国試験で順位もつく。その人の能力を数値化しやすいので、優劣について共通の話題にしやすいですよね。

数値化できるのは、競い合うには重要。ゴルフもボーリングも数字でいけるし、SNSもフォロワー何人とかもそうかな。数値化して競えるものはゲーム感覚があって上昇志向、負けず嫌いはハッスルします。

その反面、芸術のようなものはうまく競えません。みんなセンスも好みも違うので。フィギュアスケートはなんとか芸術点をつけていますが、順位を決めなくてはならないので苦肉の策です。話の面白さも数値化できないし、やさしさ、おもいやりも数値化できない。でもとっても大切なこと。やさしさ偏差値が高い人とつきあいたい。そういうの全部数値化できたらすごいでしょうね。

学歴は競技人口の多さと、数値化というわかりやすさ、あとはなんとなく仕事能力と近しいのではないか、というざっくりとした理由で、人間査定の指標にされてしまうのでしょう。群れの中で高得点をゲットしたものはリスペクトされます。人間もしょせん猿。猿山の群れの中で、序列をつけたがる生き物なんでしょう。序列に異様なこだわりを魅せるのはやっぱりオスが多いですよね。

 

持たざる者だからこその強み

 

「持たざる者」は基本的にそのゲームでは不利ですが、それを強みに変えることもできます。

学歴のないというか、「学歴ゲームには参加しない」と決めたぼくは、おかげで早くから自分の道を絞ることができたように思います。なんでもできる学歴のある人よりも選択肢が多くはないから、妥協したり、腹をくくったりがやりやすかったです。

下手に選択肢が多いと、どの可能性も捨てきれなくて、迷ってしまいがちです。あれこれ手を出して器用貧乏にもなってしまうことも(それもぜったい無駄にはならないのですが)。カタツムリは逃げるのが遅いからこそ、かたい殻を持つ選択をしました。持たざる者はできることが1個くらいしかないからその一点に集中し、得意技を育てていけるのです。

バスケだったら、チビでもできるポジションはガードに限られるし、勝負できるのもドリブル速攻か、3Pシュートくらいしかないんです。だからしょうがない、それを磨こう、となります。

カメラも単焦点レンズのほうが気に入っています。単焦点は、ズームが効かないので写せる範囲は限られますが、そのおかげで迷う余地が減るのです。決断しやすい。自分の好きなレンズを一本持って、それの使い方を極める。それが優柔不断なぼくには向いているように感じます。

仕事でも結婚でも大きな決断で、恵まれている人ほどひとつを選べないのは、他の可能性を捨てることが苦痛なのです。選ぶことは捨てることなのですが、選択肢が多いほど、ひとつに選べなくなる。贅沢なことですが、幸せばかりとは限りません。持てる者には、持てる者なりの苦労があるのです。

 

次回は、ではどうやって持たざる者が不利なゲームでやっていくのか。その具体的な方法について書きますね。

 

(5725字)
PHOTO: Krysthopher Woods


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。