【第247話】異なる楽器で同じ曲を奏でる / 深井次郎エッセイ

異なる楽器で同じ曲を奏でる

 

チームづくりで一番大切にしていること

 

「できれば安定して生きていきたい」

独立しようと決めた動機は100個くらいあるけど、そのうちの1つに「安定を求めて」があったことは間違いありません。

子どもの頃、転勤族の父の影響で引っ越しが何度もありました。住むところ、友達、そういう基盤がその都度まっさらになってしまうのは、子どもながらにもうこりごり。その反動で「将来はできれば一カ所に留まって、すべてのものを蓄積させたい」と強く思いました。

変化なんていりません。都会で刺激を、海外で知らない世界を、なんて冒険心もなかったし、ファッション雑誌の流行も興味なく、地元で平和にみんな知り合いに囲まれて、その土地に根ざしてずっと安定して暮らせたら最高だ。たまに祭りでもして、幼なじみたちと毎回同じ思い出ばなしで笑い合って、あとは何冊かの本があればいい。先祖代々ずっとその土地の育ちで、まわりは知り合いばかりという友達をうらやましいと思っていました。

転勤族のぼくは友達との絆や信頼を時間をかけて築いても、転勤が決まったら全部チャラです。小学生の頃はケータイもSNSもなかったし、友達も総入れ替え。丁寧に積みあげても砂の城。なにか大きな波によって崩されてしまう。それは自分の努力では避けようのないことでした。

・ずっと変わらない
・ずっと自分の努力を蓄積していける
・他人の影響でとつぜん崩されることはない

その状態への大きな憧れが今もなお強くあります。前に数秘術の占いをみてもらったことがあって、どうやらぼくの人生のテーマは「安定と独立」。「この2つのバランスをとること」なのだそうで、「ははーん、そうかもな」と納得しました。ひと一倍、安定への欲求が強い。それなのに、人生には独立しないとならないときもあり、歯を食いしばることを通してぼくの魂は成長をとげるのだそうです。

そう、独立して生きていく道を選んだ理由は、「冒険」ではありません。「安定」を求めて独立しました。決してカッコいい理由ではないのです。冒険なんて、別にしたくない。でも、飼い猫がある日とつぜん「野生に帰れ」と言われたら生きていけないように、安定ほど怖いものもない。逆説的ですが、無常が真理の世の中では、「変化し続けられること」が唯一の安定であるわけです。というわけで、こわいけど野生に慣れて生きていく道を選びました。

もちろん飼い猫のようにのんびり平和に暮らすことに憧れはあるんです。でも、それは難しく、いつまでもは続かない。飼い主が自分より先に死んでしまうかもしれないし、気持ちが変わることもある。そんな変わるかもしれない他人をあてにして生きていくことほど怖いことはありません。

自分でコントロールできない状態が苦手なのです。自分の出力が反映されない感じ。絶望と言ったら、墜落する飛行機に乗りあわせてしまった時ですが、これはなす術ありません。頭を抱えるしかない。

でも、自転車ならハンドルは自分で握っているし、ペダルも自分でこいでいる。危ないと思ったら止まることもできるし、行けると思ったらスピードを出すこともできる。転んでも命にかかわる大けがにはなりません。自転車は飛行機よりも快適ではないし、距離も移動できないけど、自分で操縦していないと不安だし、やりがいもありません。自分で操縦できるというのが、「自由」なのです。だから自由と快適はかならずしもイコールではなかったり、自由と安定は実は近いところにあったりするのです。

「ずっと変わらない、安定を求めるなら公務員がいいのでは?」

もちろんその線も考えましたが、公務員だからといってクビになる可能性はゼロではない。それに、一生をかける仕事を自分の意志で選べない、コントロールできないというのは、我慢できて5年が限界だと思うし、もし尊敬できない上司に頭ごなしに命令をされ続けたら、きっと病んで入院してしまう。そういうワガママなところがあるぼくは、せっかく公務員になっても、クビになる可能性がおおいにあるわけです。

というわけで、自分でハンドル握り独立するしかない、という選択になりました。誰にも命令されず、クビにならないという条件、そしてうまくいくもいかないも自分次第。これが自分のやりがいだということを考えると、しかたのないことです。どんな変化にでも対応できる状態をつくり、独立して自分の名前で仕事がきて、その行列が途切れないようにできれば、それこそが唯一の安定であろう。と目論んだわけです。

 

独立安定。両方手に入れるために、チームづくりは避けられない

 

けれども、一時的に行列ができたとしても、フリーランス、個人商店でやっているといつまでも安定とはほど遠い。ひとりでやっていては自分が倒れた瞬間に終わりです。もし事故か病気かで動けなくなってしまったら仕事になりません。お客さんは待ってくれないので離れていきます。

そこでチームやシステムが必要になる。もし自分が倒れて1、2年動けなくても回るしくみをつくるのです。 どのくらい時間がかかるかわかりませんが、そういう小さな個人プレイヤーたちの互助会、セーフティーネットを整備したい。

好きなことを続けていくには、そして独立を保つには、孤立しては心もとないぞ、というわけで、会社という形でもいいし、なにか組織、しくみをつくるのです。自分以外全部デジタル、ロボットで仕組み化できたらそれでもいいけど、現実的には難しいし、やっぱり仲間がいてうまくいったときに喜び合い、不安なときはそれを分け合って緩和する、というほうが楽しいなと。

もちろん安定だけが理由ではありませんが、ぼくは「一人きりで個人商店でやっていく」という発想はありません。チームをつくっていく。ただこのチームをつくるというのが、おそらく仕事の中で一番難しいことなのではないか。そう、独立して10年になるぼくは思うわけです。

生まれながらに向いてる人もいますが、ほとんどの人はそうではありません。ぼくも数々失敗してきて、いまだ苦手ですが、向いてなくてもやるしかない。チームづくりは避けられない課題です。でも、これまた数秘術によると、どうやらぼくは監督業に向いてる星のもとに生まれてきてるようです(都合のいいことは信じてやっていきく)。映画監督のようにその人その人の個性を活かして束ねる。あくまで占いですが、そういう資質はあるんだということです。

 

仲間づくりで大事なのは、枯らさない距離感

 

「だれも子分にしないし、だれの子分にもならない」

これは会社でも、友達でもすべての人間関係において、まず、一番大事にしていること。「お互いは別々の個人である」というのが大前提です。 相手をとりこんでしまってはいけない。関係性が上司と部下であっても、先輩と後輩であっても、兄と弟であっても、たとえ立場の関係で上下があっても、独立を守ることが、良い塩梅の関係を保つ上でのポイントです。

主人と奴隷の関係は、ありえない。「すべて主人が決めてください。すべて従いますので」そうなったら、いくら会社の業績がうまくまわっていても、ぼくは楽しくない。恋愛だって、結婚生活だって、そうではないでしょうか。

「寄り添って立つけど、近づきすぎてはいけない」

2つの木が近すぎると、どちらかが影になり、育たなくなってしまいます。どちらの木にも太陽が当たる距離を保つこと。こうすれば2つの木、ともに伸びます。もちろん大きい小さい、若い老いてるはあっても、すべての木が影にならないチームが理想です。それには依存しすぎず、独立性を保つこと。

この間、ある若い男性が恋愛の話をしていて、「ぼくは相手に告白して恋が成就してしばらくすると冷めてしまうんです」と悩んでいました。似たようなことをある経営者も言っていて、ずいぶん口説いて外からスカウトしてきたエリート社員なのに最近は「ありがたみというか、存在感を感じない」とか「粗ばかり見える」と。

なぜ相手に魅力を感じなくなるのか。理由のひとつは、近づきすぎて一体化してしまったからです。このタイプの人は、親分になって相手をのみこんでしまいます。手取り足取り、なんでも教えるし、面倒見も良くて、そのうち保護者になってしまう。すると、子分はそれに依存するようになる。相手の木は、日が当たらないからどんどん小さく枯れていき、やがて存在はなくなります。魅力も何もあったものではありません。

言うことさえ聞いていれば、社宅もあるしボーナスも出るし、大企業の肩書きも信用もあるし、社会保険も心配ない。そういうすべて守られた環境というのは、(特にぼくみたいな易きに流れるナマケモノは)よほど気を張っていないと枯らされてしまいます。現にそういう人がたくさんいる。

 

バンドオーケストラのような組織にしたい

 

いま考える、良いチームのありかたのイメージとしては、バンド。もっと規模が大きくなるとオーケストラです。

異なる楽器で同じ曲を奏でている。みんながそれぞれの楽器の腕を磨いて、リスペクトしあい、同じ曲を演奏している。それぞれのソロパートもあって、ソロでも魅せられる人間があえて

「チームだとまた別の面白さがあるし、1人じゃできないことができるから」

というふうに集まってくるチーム。

あなたはトランペットはできるけど、クラリネットはできない。でもクラリネットがあったほうが演奏に厚みが出てよくなる。これなら、相手をいつまでもリスペクトし続けられるし、いつも出番があるから相手を枯れさせない。

チームがバラバラになってしまっているときは、異なる楽器で異なる曲を奏でてしまっているとき。これではただの騒音です。なんとか和をとって「同じ曲をひこうよ」と方向性をあわせる必要があります。

同じ楽器で同じ曲を奏でる、というのが依存タイプのチーム。1人のトランペットが2人になっても、ただ音が少し大きくなっただけ。これが2倍に音量が上がれば意味はあるけど、たいてい2倍には感じません。体感的には、よくて1.5倍くらいでしょうか。これでは2人の才能を最大限に活かしている状況とはいえません。単純に音量上げたいなら、マイクを使うという手もありますし。大量生産の工場のスタイルでは、同じ楽器の人が多いほうがいいけど、人間ひとりの存在が軽くなる場はぼくはつくりたくありません。

「上司に言われた通りやっている。でも、どんなにがんばっても評価されません」

そう会社で嘆いている人は、多くの場合、近づきすぎて大きな上司の木の影になってしまっている可能性を疑ってみるといいかもしれません。

 

どこをゴールとするか。その価値観をそろえる

 

今がんばっているのになぜ評価されないか。よくある例としては、「そのチームに入ること。それ自体が目的化してしまっている人」の場合があります。たとえば、

・結婚することがゴール
・その会社に就職することがゴール

彼はその組織にいることがゴールなので、その後はもう余生、といってもいい。あとは何事もなくのんびり暮らしていければ、というおじいいちゃんです。

そもそも、なぜそのチームはつくられたのか。に思いをはせてみる。たとえばぼくらオーディナリーの場合は、「目指す山頂に、できるだけ楽しく安全に登るため」です。

「好きを活かして自分らしく生きる人があふれる世の中に」

その高くそびえ立つ山頂にアタックするには、ベースキャンプが必要。アタック要員とベースキャンプ要員が必要ですが、これはどちらも同じくらい重要で労力がかかります。この登山チームの中には「ベースキャンプ自体がゴール」というメンバーは1人もいません。

ベースキャンプに食料や燃料を上げるまでが仕事のベースキャンプ要員だって、山頂付近の天気は気にかけているし、アタック隊のバックアップをします。アタック隊が失敗したら、いっしょになって残念がります。

「ぜったいに山頂にチームの旗を立てるんだ」

全員が同じ気持ちをもって、ゴールをイメージして準備しています。

どこをゴールに置いているかで、その人の行動は確実に変わります。チーム全員が山頂を目指すことでまとまっているチームは、

「ついに晴れ間が出た! チャンスはいましかない、アタックしよう」

「よしきた、いきましょう! 準備はできています」

となるけど、まとまっていないチームはそうはならない。

「え、晴れ間? べつに今じゃなくてもいいでしょう。っていうか、そもそもなんでアタックなんてするんですか。わざわざ危険に身をさらすなんてアホですよ。ずっとベースキャンプにいればいいでしょ。ここでも十分景色いいじゃないですか? 」

もしエベレストのベースキャンプでこんなこというメンバーがいたら、テントから放り出されますね。実際、いろんなチームでこの問題、起きてます。

たとえば、夫婦。山頂がゴールの旦那と、ベースキャンプ自体がゴールの奥さん。旦那は自分がアタック隊で、家庭がベースキャンプだと思ってますから、ベースキャンプがちゃんと整っていないと不満を持つわけです。

それに対して奥さんは、

「そもそもなんでアタックなんてするのか。山頂なんて、あなたが勝手に目指してるんでしょ。こっちとしては、早く帰ってきてベースキャンプを快適にする動きをしてほしいのに。あなたは全然かまってくれない」

男も女も結婚すると変わる、とよく言われますが、それぞれの目指すものについてズレがあれば仕方のないことです。 アタックしたい旦那は、釣った魚にエサをやらなくなるでしょうし、ベースキャンプで楽しく過ごしたい奥さんは、アタックのためにつぎ込む投資を理解できません。「本を買うお金があるなら、ケーキでも食べようよ」と奥さんに言われ、がっかりするわけです。

アタックがゴールなのか、ベースキャンプ自体がゴールでいいのか。これはどちらが正しい、というのはないのですが、チーム内でズレがあると厳しい。解散理由で一番多い、「価値観の違い」というものです。

エベレスト級の山頂を目指すベースキャンプでは、ベースキャンプ自体の標高も高いですから、そこにいるだけで相応の体力が求められます。酸素も薄いし、知識、技術、そのレベルに順応できなかったら、降りていかざるをえない。チームの相方の目指す山頂が高すぎて、ベースキャンプにいるだけでも呼吸がしんどい、というケースもあります。

逆に、ベースキャンプにいるだけでは飽き足らず、アタックをしたら怒られた、というケースもありました。市役所に勤めている公務員のぼくの同級生は、

「おまえは仕事が速すぎる!」

と上司に怒られたそうです。

「おまえがそんなに速くこなしたら、他のメンバーがサボってるように見えてしまうだろう。足並みを揃えなさい!」と。

ベースキャンプ自体がゴールの組織において、ひとりアタックしようとしても理解されません。スタンドプレーと写ったり、出る杭は打たれたり。

「仕事が速すぎる! 」

これで怒られるなんて笑い話みたいですけど、この組織ではこれが正しいのです。自分が入ろうとしているその組織のゴールは山頂なのか、ベースキャンプなのか。それを理解してチームに入らないとお互いに幸せになりません。

アタック隊も、アタックをするためにはベースキャンプが必要。なので、ベースキャンプのメンテナンスをおろそかにしてはいけません。ベースキャンプもつくらず、いきなりひとり山頂にアタックして命を落とす人もあとをたちません。

むしろ、まずなによりもベースキャンプが大事。それが整ってはじめてアタックができる。そこをスキップすることはできません。だからアタック要員もアタックのトレーニングと同じくらい、ベースキャンプのメンテナンスに労力をさかないと。

大きな組織では、たいていアタック担当とメンテナンス担当に役割分担されます。分けたほうが効率的だから。だけど、長年それだけに特化していると、相手に対するリスペクトも薄くなってしまうことがあるので、たまに部署移動がある。制作部の人が営業部になったり、平社員が期間限定で社長になったり。苦手でもやってみれば気持ちもわかるし、みんなが両方の役割ができれば、1人で独立できる力もつくし、いいですよね。

 

あなたはアタックしたい山頂がありますか

 

何度も言いますが、山頂をゴールとするか、ベースキャンプ自体をゴールとするか。これにどちらが良い悪いはありません。それぞれのチームによって違っていい。高みを目指す資本主義、現状維持の共産主義、どちらが正しいというのはありませんね。好みの問題で、大事なのは、チーム全員がゴールを理解して同じ風景を見ているということです。

どちらか2つにひとつではなく、2つのハイブリット型もあるでしょうし、配合の割合もあったり、そこはチームごとに考えてみてください。リーダーであるあなたの中ではっきりさせれば、自ずとだれをチームのメンバーに選ぶか、変わってくると思います。

ぼくらはアタックしたい山頂があります。だからオーディナリーという登山チームをつくっています。全体でアタックしたい山頂もあるし、深井次郎ソロでアタックしたい山頂もあるし。メンバーがそれぞれの山頂にアタックするためのベースキャンプにオーディナリーがなれればと思うのです。何人もの個人登山家がひとつのベースキャンプを共有するイメージです。

だからいつも山頂の天気は気にするし、ルートの研究はするし、先人たちに経験談を聞いたりもします。体力、技術も磨きながら、ベースキャンプをつくっています。キャンプ内の仲間の登山家の状況も気にしてケアするし手伝う。一緒にトレーニングもする、という感じ。

山頂は険しく、きっと何度もアタックをくりかえすことになるでしょう。だからこそ強固なベースキャンプをそのために整えるのです。少しずつ高度も上げながら。いっしょに登山をしてくれる仲間は少しずつですが増えています。

 

(6869字)
PHOTO: Muxxi.


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。