【第245話】許可を求めない練習 / 深井次郎エッセイ


許可を待つより、後で謝るほうがいい」

 

極論ですが、これは独立してなにか新しいことをはじめる人たちへのアドバイスです。会社員生活が長くなると、ホウレンソウの徹底を口が酸っぱくなるほどしこまれて、「事前に許可をとる」ことが癖になります。たしかに、関係者に許可を取った方が安全にコトは進みますが、逆に言うと安全なコトしか進まなくなります。

ある写真家は、たとえば梅佳代さんのようなストリートで出会った決定的瞬間を撮るのが好きで、自分の作風にしています。しかし、このところ一般の方でも個人情報保護や肖像権に過敏になって、「人を無許可に撮るのは盗撮だ」とさえ糾弾される風潮もあります。

そうすると、じゃあ、決定的瞬間に出会っても、「あ、そこでストップ! ちょっと撮らせてもらっていいですか? こう言う者なんですけど」と許可をとるのか。それは現実的ではないですよね。撮られるのを意識した時点で、自然な表情は出ないので、「いまこの瞬間」を逃したら意味がありません。だから、撮ってしまってから、「すみません、写真家なんですけど」と名刺を渡して許可を取る。こういうやり方にしているようです。

会社にいると上司に許可なく独断で新しいチャレンジをすると、失敗したときは「なんだおまえ勝手に!」。クビが飛びます。でも、許可があれば、どんなに大きな失敗をしても、それは許可した上の責任。多少怒られても、クビまでにはなりません。してはいけないのです。責任をとって辞めるとしたら、許可をした一番上の上司です。

こういう縦の構造の中で生きていると、なんでも「事前に許可」の癖がつきます。この癖が、これから独立してやっていくときには邪魔になることがある。「だれかに許可をとらないと心配だ… 」と。許可は、一見すると相手を大切にしているようで、実は自分が責任を持たないようにしているだけ、という場合があるのでやっかいです。

世の中のことは、すべて法律でも成功確率でも、きっちり白黒つけられることではなくてグレーゾーンのことばかりです。あなたが独立してはじめる新しいことは、このグレーゾーンにあることが多い。確実に正しいことはないし、確実に成功することもありません。何もリスクのない、真っ白のことなどないわけです。

ぼくも役所に相談に行ったときに言われたことがあります。

「実は深井さんの案でも大丈夫なのですが、私が許可したとは言わないでください。こっそりやってもらう分には問題ありませんので」

最初は難色を示していました担当者も、ぼくが熱心に説明をくり返したら、本音を教えてくれたのです。

「グレーですが、実は限りなく白に近いグレーですので大丈夫です」と。

みんな忙しいのです。許可を求められたら、とりあえずノーにする人も多いです。相手に仕事や責任は増やしてはいけません。少しでもグレーのものを許可するということは、責任が生まれてしまうのです。

もしぼくがだれかに突っ込まれたときに「役所が許可だした」となると、「役所のだれが?」となって、その人が白の理由を説明するのも面倒です。仕事が増える。だから、役所が「グレーなものは許可しないほうが楽」という発想になっても不思議ではありません。

許可して、責任をとる。これは実は重労働です。会社にはそのために上司がいるわけです。下から見ると、上司はずっとデスクに座ってて何もしてないように見えますが。小さなことでも許可をとりたがる人は、相手の仕事を増やしていることに気づかないといけません。そして、自分の責任を押しつけているのです。

独立すると、上司がいなくなります。「自分で責任とれることは勝手にやる」という考え方にしないと何も進みません。前例がないことをやろうとすると、「公園でトランペットの練習をしてもいいですか?」みたいなことが毎日のように起こります。役所に聞いても「うーん、そういう規則は一応ないのですが、でも… 」許可して何か苦情が来たら役所のせいになるので、一応NOにしておく。で、「そのトランペット企画ダメでした…」ということになる。

たとえばですけど、こういうのが多い。本当にもったいない。公園の近隣に家がなければトランペットも大丈夫でしょう。もし、何かトラブルが起きても、自分で謝罪しておさめられます。

「路上で手作りのアクセサリーを売ってもいいですか?」

役所に許可とろうとしたら、「どんどんやってください」とはなりませんね。

だから、なんでもやってしまえ、という荒っぽい話ではありません。良いか悪いかの判断は、新人ならまだしもある程度社会生活をしてきた大人だったら想像がつきます。考えることをサボらないということです。許可をとらない代わりになにか問題が起きたときは、全責任をとる。逃げずに、問題をおさめる。自分がおさめきれるサイズの物事に関しては自分で決めていい、ということです。むしろ決めなければならない。決めて責任とるのがリーダーの仕事です。

・もし賠償金になっても払える規模か
・今の立場や築いてきた信用を失っても後悔しないか

それを心に確認したら、やってしまって後で謝る方が良い。でも、ぼくの今までを振り返っても後で謝る事態になったことは、数回しかありません。


許可を得ようとしているときは
止める理由を探しているとき

「あなたは写真の先生として教え始めていいですよ」

そんな許可はだれもくれません。自分で自分に許可を出すしかない。「もし、自分が間違ったことを教えてしまって、生徒に何かが起きても、責任を取る。必ず挽回できる」と。

だれかの許可を待ってたら、いつまでも教えられません。許可が欲しい人たちの背中を押すために、資格ビジネスも意味があるのかな、と思います。一応「野菜マイスター」持ってるので、料理研究家と名乗ってもいいかな、とか。資格をとることで安心する部分はあります。

ただ、資格を与える方は、許可を出しているので、責任がうまれることを自覚しないといけない。野菜マイスターだって、ツリーハウスビルダーだって、資格を認定するということは「この人はこれだけの知識とスキルがありますよ」とお墨付きを与えること。もし、問題を起こしたら、責任の一端は担わないといけません。

この間も、あるコンテストに作品を応募した人がいて「エントリーの〆切を1日過ぎてしまいましたが、送ってもいいですか?」とメールで確認したら、もちろんノーと回答がきました。 それでも諦めきれず、ダメなのを覚悟で応募フォームから送ってしまいました。そしたら、受け入れられていた。〆切を少し過ぎても、滑り込めることは世の中意外に多いのです。諦めないでよかった。そしてそこで得た賞をきっかけに人生がひらけていく、ということはけっこう聞く話ではありませんか。

電車のかけこみ乗車と同じです。もちろん危ないのでいけませんが、「どうしても乗るんだ」という気迫をみせるともう一度開けてくれる。たいていのドアは2度開くのです。なのにぼくは諦めて、恥ずかしさをごまかすためにドアから離れてしまいます。ドアの近くを離れなかった人は、スッと乗りこめる。毎回はいけませんが、人生には何度か「今回だけは何としてもねじこむぞ」という時があるものです。

「ぎりぎり間に合わないので、ドアを2度開けてもらってもいいですか?」

JRにそんな事前許可を求めて、「ああやっぱりダメだった」という人がいたら笑います。通るわけがない。でも、同じようなことをぼくらもやっているときがあります。

小さなことでも各方面に許可を求めようとしているときは、「現状に留まるための理由」を探しているのかもしれません。誰が何と言おうがやるぞ、必ず社会を良くする、という覚悟があればやってしまえばいい。

自分で責任を背負うことに慣れてから独立するのが最低限の条件です。そうすれば「許可ばかり求めて何も形にならない」ということにはなりません。「やったもん勝ち」という言葉はあまり美しくありませんが、そのくらい前のめりでいかないと新しいことはできないのです。

 

組織よりも個人のほうが頼りになる時

 

そうだ、蛇足かもしれないけど、この文脈で悲しかった話を思い出した。20代の頃、茨城県つくば市にいたときに、帰りの電車で財布を(盗まれたとは思いたくないですが)なくしたことがありました。

駅から帰るのに自転車で30分くらいあるのですが、その駐輪場から出るための110円が払えない。駐輪場の門番のおじさんに事情を説明して通してもらおうとしたら

「いやー、私では許可できません」

しかたなく交番にいき、財布の紛失届を書き、駐輪場の110円を貸してもらおうとしたら、こちらも「ダメ」。学生時代、たしか同じような状況で交番で借りたことがあるなー、と思っていたのですが、近年は貸さないルールになっているようです。こちらの身分を示すものは出しているし、携帯番号も教えて、人質と言うか鞄もあずけて、明日何倍にもして返すと交渉してもダメでした。「そういうルールですから… 」の一点張り。

もちろん失くしたぼくが悪いのですけど、困っている人にもう少し、手を差し伸べてくれても… とは思ってしまいました。「そこをなんとか。警察としてではなく、個人として、110円貸してくれませんか」と交渉しても、その警官は「うーん… 私には決めかねます。もう一度、駐輪場の方と交渉してもらえますか」。

駐輪場のおじさんに再度交渉しても、こちらも同じ。

「絶対明日返しますので、通していただけると助かるのですが… 」

「いやー、私の判断ではどうにも… 」

とおじさんはオロオロするばかり。深夜1時ということもあって、上司にも連絡ができない。おとなしく歩くとかタクシーで帰る、という選択肢もあるのですが、なんだか諦めたくなくて、一般の人に可能性をかけました。

駐輪場を出ようとする会社員風のお姉さんに、「すみません、こういう事情で」と助けを求めたら、

「いいですよー、大変でしたね」

なんと1人目で110円貸してくれたのです。返すために連絡先を聞こうとすると、「返さなくていいですよ」と。いえいえお礼させてください、と粘って聞き出して、後日何倍ものお礼を送らせていただきました。

「このくらい、なんで通してもらえないのでしょうね」

そのお姉さんも不思議がっていました。駐輪場のおじさんは、少し恥ずかしそうでした。それは自分には権限をもつ少しの覚悟もない、という恥ずかしさです。なんだかかわいそうに感じて「気になさらないでください。ぼくが悪いので。ご迷惑おかけしました」と謝りました。

組織に縛られている人は、一般のお姉さんが即決できるような小さなことも判断できない。もちろん悪いのはぼくなのは重々承知ですが、悲しくなりました。実は同じ状況になったのは2度目で、1度目は駐輪場のおじさんが「通りな。俺は見てなかったことにするから。元気だしなさい」と通してくれたことがあったのです。もちろんすぐに恩返しはしています。

組織の中にいても、独立している人はいるのです。これも何が正解かはわかりません。ぼくが求めたことはただのわがままで、きっと間違っているのでしょう。でもぼくだったら、自分の頭で考えて、責任をとれる範囲で、目の前の人の力になりたい。緊急事態においては、従業員である前に、ひとりの人間ですから。震災のときも、コンビニの運転手が中身を助けを求める被災者に配ったということが何件もありました。その運転手が社内的な罰則になったかは定かではありません。けれど、そういうとっさの判断ができる人と仲間になりたいなと思います。

 

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PHOTO: Muxxi.


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。